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世界初公開!演劇版アフターダークについて (07年3月)

 デュッセルドルフから車で30分ぐらいのところにあるBochumという町で、村上春樹『アフターダーク』の演劇が催されるということで、行ってきた。ちなみにBochumには生産性が悪くて悪名高いオペルの工場があります。全然関係無いですけど。

 もちろん、ドイツ語で上演されたので、台詞回しは全然わからんかったのですが(だから、例えば翻訳←解釈がどうなってるとか、そういう議論はできません。申し訳ない)結論、とても良かったと思う。とても良かった。多分、観る前は、超良い出来の小説が映画化されたものを観るような怖さがあったんですが、正直、小説をうまく演劇という表現装置に取り込めていたと思う。

 そこで、やはり焦点は、「『アフターダーク』のような、東京のど真ん中で繰り広げられる小説を、ドイツ人がいかに解釈し、表現するのか?」。特に、マリと高橋の、微妙な温度の中で続いていく掛け合いがどのように表現されるのかに注目してた。結論は、一言で言えば、演技が少し神経質だという点。それぞれの言葉が、仕草が、尖ってる。ぼくが『アフターダーク』を読んだ時のイメージ、というか、村上春樹の本に出てくる男の子や女の子は全般的にもっと柔らかい、少なくとも表面的には(内側に何か先鋭的なものを潜めているとしても)。そこがちょっと上手く伝わらなかったと思う。高橋役のChristoph Puetthoffは、道化的な役廻しで、それを忠実にこなしてるところは良かった。でも、マリ役のAgnes Rieglは全般的に落ち着きの無い、悪く言えば子供っぽい演技で、ちょっと?だった。ショートカットを逆立て、Tシャツにスリムなジーンズ、暖色系のコンバースを履き、Childishな感情の起伏を表現していたけれど、ぼくが理解するマリは、もっと大人びていて、シュールで、緩慢な動きをするはず。

 別の表現をすれば、Agnes Rieglのマリは、エゴン・シーレのポートレートに登場する少女である。終盤、彼女はマリに、シーレが1910年に描いた『腕を交差させる少女の裸体』(Maedchenakt mit verschraenkten Armen)と全く同じ身体操作をさせた。でも、ぼくがイメージする身体操作は、ミラン・クンデラが『不滅』のなかでアニェスに与えたようなものに近い。鋭角よりも鈍角、直線よりも曲線を多用するもの。

 もうひとつのポイントは、彼女が劇中、一貫して身体の一部を「掻く」という仕草を続けていた点。この仕草は、何を表しているのだろうか?ぼくは、多分、それは機能としての身体を意識すること、また、その機能に対する潜在的な不安を暗示しているのだろうと感じた。登場人物に身体の一部を掻かせる例をぼくは『ライ麦畑でつかまえて』に思い出す。ほんの冒頭部分でホールデンは言う。

I like to be somewhere at least where you can see a few girls around once in a while, even if they're only scratching their arms or blowing their noses or even just giggling or somehitng.

「掻く」という動作は、外側に向かう「性的な身体」ではなく、内側を見つめる、生命維持装置としての「機能的な身体」の発露なのだと思う。どうしてその点がクローズアップされなければならないのか?それは、エリがこの劇中で司る「眠る」という動作との対比なのではないだろうか。エリが眠りつづけるということは、エリが「性的な身体」の反対側にあることを意味している。ロベルト・シュナイダー『眠りの少年』に登場するエリアス(この名前の類似性にも、何か因縁めいたものを感じる・・)は、恋するが故に、肉体にもその恋を課す、つまり、自分が眠ることを許さない。

いずれにしても、最後に高橋がマリを後ろから抱きしめるの、あれは違うなって思った。その演出は間違ってる。・・・でも、観客がドイツ人という事を想定したら、それぐらい身体的に表現してやらないと、恋愛感情を出せないんだろうか・・・

ちょっと批判が多くなってしまった気がするけど、とても興味深かったのは確か。