2001年9月5日 水曜日

いつもどおり、落書き程度に。

とにかく、なにか書かなきゃならんとおもい、一冊読み上げるごとにレポート(の如きもの)を書くことにしまして。まあ、誰に読ませるでもないので、気楽にいこう。

 デカルト(1596〜1650)フランス人。『方法序説』には、何が書かれているか?

「私の計画は方法を教えることにあるのではなく、ただ方法について語るにあることを示したいのである。」

この一文は、(方法を不当に行使することの危険さを知り尽くしていることから生じる)彼の慎重さを物語っているようにおもわれる。彼は多大な慎重さをもって「疑い」を推し進め、真理・・・「cogito ergo sum」に至った。彼の「方法」がいかに危険であるかという指摘をハイデッガーがしている(「デカルトの思考は、ものを目の前に据えて客観的に見ること、世界を科学的技術的に処理する態度であって、この態度によって存在理解が歪められている」)宗教学の先生も「S=Oの関係」てしきりに言ってたよね。

デカルトの「神の存在証明」には圧巻。すごいね。一般的無心論者(たとえばほーりー)なんかは、神を「想像力の産物」と片付けておしまいやけどね。『序説』第四部にて展開。

「疑い」なぜ人は自らを「不完全である」と感じるのだろうか?

「答え」それは明らかに、自己を「何か」もっと言えば、完全性を有する何か、と比較しているからだ。自らのプロトタイプ・・「完全性」のプロトタイプを、希求している。

「疑い」では、その「完全性」はどこから来る?

神は完全である。完全をもって在る。それは想像力の産物ではありえない、なぜなら想像力は不完全であやふやなものであるから。不完全なものから完全なものを造りだすことはできない。また、デカルト的に言えば感覚はこれまた不完全なシロモノであるから、信頼できない。そこで、彼が言うような(「良識はこの世のものでもっとも公平に配分されている」)理性、そのようなシロモノ、は学ぶものではなく、もともと個人に備わっているものである。さて、不完全なものから完全なものは生起し得ない、だから神の概念(完全性)はヒト(不完全性)から生起したものではあり得ない。そこで、それは何か他の存在者が与えたものだと考えられる。

よって、神は存在する。

さらに「存在論的証明」を披露する、デカルト。

「神は完全なものだから、当然最も実在的であり、それゆえに存在する。単に観念として存在するのではなく、実体を持って存在する。」

11cカンタベリ司教アンセルムス創始。13c、トマス・アクィナス、反対。ガッサンディ、反対。スピノザ・ライプニッツ、賛成。カント、反対。ヘーゲル、賛成。

な〜んかぼくからすれば眉唾やねんけどな(笑)まあいいや。デカルトが革命的であった点について。デカルトの神学に対する態度は、たとえば『序説』第一部で述べているように;

「私どもの神学に私は深い尊敬の念を持っていた。そうして天国に至ることができるならとだれしもと同様に願っていた。けれどもそこに至る道は最も無知な者にも最も博学な者にも等しく開かれていることが、そこへ導く啓示的真理は私どもの理解を越えたものであることが、いずれもきわめて確かなものと知ったのちには、私はあえてこれらの道程および真理を私の薄弱な推論の下に屈従させようとはしなかったし、これを仔細に追求しようと企ててそれをうまく成し遂げるためには、天帝の何か異常な加護を得ることが、そうしてまた人間以上であることが、必要であると私は考えた。」

つまり、「信仰」に知識☆学問の有無は無関係であるので、研究はやめにした、と。啓示神学は信仰以外の何者でもなく、それを理性で切り刻んでもしょうがない。解説書には「哲学は自然神学を含むけれども啓示への信仰とは独立でなくてはならない」て書いてあります。ここでひとつ説明をいれとくと;

啓示神学・・・・聖書、神の奇蹟、つまり、「信仰」。

自然神学・・・・哲学的思考を推し進めていくと、「生と死」「世界」といった途方も無い概念を扱うようになる。いってみれば、形而上学ということかな。

信仰と理性を別々に考えるというやりかたは、14cのスコラ哲学者(特にオッカム)を受け継いでるらしい。さて、この二つの、宗教に対する見方、やりかたには、13cにアリストテレス神学がヨーロッパへ伝えられて(もちろん、イスラム世界から)以来の対立がある。中世以来の伝統的見地は、「信仰」を「理性」よりも高く見る、というもの。理屈としては;

「理性の解し得る真理は有限なものであって、それより上位に信仰の真理があり、これは理性にとって一つの神秘であるが真理であることには変わりが無い」

さて、デカルトがはじめたのは、この全く正反対、つまり「信仰」に対する「理性」の優位を説いたということ。そこで彼以来、理性的思考を盾にとって宗教批判をする人間を「自由思想家」リベルタン、と呼ぶようになったらしい。

野田 又夫氏の名言;

「宗教はいつも批判にさらされていなければ腐敗する。」

さて、デカルトの「神」について。彼自身は「敬虔なカトリック教徒」であったことは疑いないのですが、ここでの「神」が「生ける神」ではなく「考えられた神」ではないか、という点が、重要なんでしょう。パスカルとデカルトが最終的に決別せざるを得ないところが、ここです。パスカルの有名な一句;

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者科学者の神にあらず」

さらに、彼らの対立としては、「人間の自由意志」か「神の恩寵」か、つまり仏教的に言えば「自力」か「他力」か、というところに来る。

さて、彼の「物質世界」について。彼の目論見は、「物質世界の肯定」にある。なぜ、まず感覚を否定したか?感覚はあやふやなものだから。だから、感覚を通すのではなく、理性を通して、客体を、物質世界を捉える、それが「S=Oの関係」なんですな。「主体をもって客体を捉える」ということ、ですな。具体的に、理性な何を示すか?デカルトにすれば、それは「幾何学的証明」ですな。宗教学の先生(名前忘れた・・)元京大学長の説明によれば、例えば水が沸騰する。感覚はあやふややから、「熱い」「ぬるい」「ちょっとなまぬるい」というものでしか知覚できない。つまり感覚というのは全て「相対的」である、と言えるでしょうな。こっちの水はあっちの水より甘いけど、そっちのより苦い、とか、そんな感じ。ここに、科学的証明を加えていく、つまり、「水は100℃で沸騰する」と。これは水の特性を規定し、後にワットの蒸気機関とかに進んでいく。自然界を、客観的事実によって規定する。

さて、ここでひとつの矛盾点にぶちあたった。「S=Oの関係」というが、デカルトは「主観」を否定する。これいかに?次のように解釈したいとおもう。「Subject」は、主観・・・感覚による(デカルト的な)偏見☆先入観ではなく、「主体」つまりそういったものを取り去った、疑いに疑いを重ねた「純粋理性」をイミする。自らを疑い、真理を追究していくとなると、それはぎりぎりまで「主体」を「客体」化していくということ、つまり、「客観的事実」を求めていく、ということになる。まとめ。「感覚的曖昧さを取り払った理性、純粋理性をもって客体を捉える」。「知性的客観性と意志的主観性の二元論」。実は、「S=O」の関係、とは、この二元論を指すのか?うーんわからん。

ここに、バロックという時代を重ねていくと、どうなる?例えば、荒又さんの論とか、参考にならへん?時代的にも被ってるし。

とにかく彼の「方法」は余りに淡々としている、というか、ある意味冷酷なので、ロマン主義者の批判対象になったという。ヘーゲルとかね。ヘーゲル、読みたいね。

宇宙的考えの流れ。

コペルニクス(ギリシャ以来の、天体運動の幾何学的記述)

ガリレイ(地上に於いての力学に重点を置いた)

デカルト(力学的原理を天体運動に適用することを試みた)

ニュートン(ケプラーの遊星運動の法則をも適用し、力学的宇宙論を完成させる)

ま、とにかく、こんなかんじですかね。デカルト『方法序説』と野田又夫『デカルト』よみました。さて、こっからスピノザ辺りに入っていこうかな、と。あ、まずルソー読まなあかんかな。