ドン・キホーテについてのレポート

 

「ドン・キホーテ」は、この夏休みを通して読みました。その後、少しそこから離れていろんな本を無作為に読んでいて、そこから改めて「ドン・キホーテ」を意識するところがありました。ということで今回は、「罪と罰」「異邦人」、そして「変身」を絡めて書いてみたいと思います。

 「変身」については少し置いておいて、まず「ドン・キホーテ」と「ラスコーリニコフ」「ムルソー」を横一列に並べて考えてみます。僕が彼らに共通して感じたのは「罪」と「罰」の概念です。ラスコーリニコフは、自分は「特別な人」であり、自分の小さな罪はその後の行動によって償われるという理論に基づいて、殺人=「罪」を犯す。しかし結局その罪の意識に怯え続け、自ら「罰」を受けるに至る。ムルソーも同じく「罪」を犯し、最後に「罰」をうけるのだが、彼にとってはもはや「罪」は「罪」ではなく、「罰」もまた「罰」にはならないところが特徴的です。そして、先に結論から言いますと、ドン・キホーテの「罪」は「狂人であること」であり、「死ぬ間際にもとの善人アロンソ・キハーノに戻る」ことが「罰」なのだ、と思います。

 「罪」や「罰」とは、一体何なんだろうか、と考えてみると、それはつまり「常識」という漠然とした土台に基づいたものであると捉えることができます。一見、「常識」とは確固とした概念のように思えるが、実はそれは、ある集団に於いての比較的多数か、そうでないかの違いでしかない。しかし、社会的秩序を保つ為には、ある一定のラインを敷いてそこから逸脱する者達を排除すること、すなわち「罪」を犯すものを「罰」する、ということが必要となってくる。そして、そのラインをそれぞれのやり方で飛び越えていこうとする者達というのが、彼らの正体であると思います。ラスコーリニコフは「理屈」、ムルソーは「不条理」、そしてドン・キホーテは「狂気」によって、それを試みる。

 ドン・キホーテは成る程、一般人と比べて突飛な行動をします。しかし、その彼の「狂気」

を人々は、また僕達読者は笑うことが出来るのだろうか・・?僕は確かに前編辺りでは彼の異常さを素直に笑っていましたが、公爵夫妻が出てくる頃には少し笑いにくくなってしまっていた。公爵夫妻はしきりにドン・キホーテとサンチョ・パンサをからかう。それがおもしろいのは僕達はあくまでこちら側に居ると考えているからですが、しかし同時に彼らがあの鋭敏な知性をいかんなく発揮するので、次第に僕達は彼らをどう定義すればよいのかわからなくなってしまう。カフカの「変身」を読んだあとで、それを特に感じました。グレーゴルは毒虫になった自分を発見する、がしかし彼はそのことよりもむしろ仕事に行けない事のほうを気に懸ける。さらに彼の家族も、その毒虫が自分達の家族の一員であることを疑いもしない(何故、彼らは、グレーゴルが虫に喰われたという発想に辿り着かないのか・・?)あの、非日常的な世界を日常的に描くことにより生じる違和感は、「ドン・キホーテ」の世界と似たものであると思います(そこにはこの作品が持つ二重構造も関係している。ホルへ・ルイス・ボルヘスは『異端審問』の中で、この構造が読者を落ち着かなくさせる理由として『物語の作中人物達が読者や観客になることができるのなら、彼らの観客であり読者である我々が虚構の存在であることも有り得ないことではない』と言っている)。ドン・キホーテは狂気なのか、正気なのか?その疑問は、いつのまにか彼を眺める読者自身に向けられ、彼を笑う僕は絶対に正気だと言い切れるのか?という不安にすりかわる。

 ドストエフスキーは「ドン・キホーテ」を「この世のあらゆる書物の中で最も悲しい書物」であると評しています。ドン・キホーテが騎士道の「真実」と「現実世界」の矛盾に悩んだ挙句、自らの空想に逃げ込んだ結果、「うそがうそによって救われる」という「悲しくも滑稽な美しい人間の劇」が続いていく、と、彼は言いますが、僕にはドン・キホーテが現実逃避をしたイデアリストというよりも、一般人よりもより強力なリアリストであるように思えます。この本の悲しさは、彼が狂人であることよりもむしろ、最後の最後で正気に戻ること(セルバンテスによって正気に戻らされること)、つまり、「常識」を超えていくことをやめ、「罰」に身を委ねるところにあると思います。

 では、「ドン・ファン」とドン・キホーテの違いは何だろうか?それについては、未だ考えているところです。ひとつ、思ったのは、ラスコーリニコフはドン・ファンに、そして「超人」に憧れていたんじゃないだろうか、ということです。ラスコーリニコフの「普通の人」「特別な人」の理論を見ていると、なんだかニーチェの超人思想の表面だけを見ているような気がする。ラスコーリニコフは自分の行為の正当化を試みた時点で既に「普通の人」であり、その後の苦悩は自分を見誤った者が当然受けるものだと思います。ドン・ファンのような人は、行為の前に、最初から自分を正当化しきっている。これは、一般人には決して出来ないことだと思います。ドン・ファンについて、「異邦人」を書いたカミュが「シーシュポスの神話」の中で批評を書いていたのが面白かった。あと、解説書を一通り探したのですが、カミュが「ドン・キホーテ」の影響を受けているという記述は見つかりませんでした。ただ「シーシュポスの神話」の中で『ドン・キホーテ的な思考方法』という表現がありました(が、何を意味しているのかが明確にはわかりません)。

 少し話は逸れますが、「自己を正当化し続けながら生きる」のと「最初から自己を正当化しきって、そのうえで生きる」というのが「普通の人」と「特別な人」の違いであるように思いました。あと、その辺の所から「カミュ」と「ドストエフスキー」と「ニーチェ」が繋がったのは面白いと感じました。