マリオ・バルガス=リョサ『密林の語り部』

 

 もう読んでちょっとばかり経つんやけど、そして本は図書館に返してしまったので引用とか正確にできないんだけど・・バルガス=リョサ『密林の語り部』。イスパノアメリカ史の授業で、I先生が楽しく説明してくださったので、興味が湧いたのです。

 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいやなと思った。構成が。「対位法」と言うらしいけど、とにかく章毎に全く別の(と思われる)ストーリィを展開していくのだ。『密林の語り部』では、奇数章は私(=リョサだと解説には書いてあった)の、ペルーと大学のトモダチとマチゲンガ族にまつわる様々を、偶数章では「語り部」が織り成す、マチゲンガ族の過去・現在・未来の物語を、それぞれ発展させていく。

 『世界の終わり・・』でもそうなんやけど、ぼくらは普通に、1章、2章、3章・・と順番に読んでいく。でも交互にストーリーが入れ替わるから、アタマをそのつど切り替えなくちゃならぬ。これは結構骨の折れる仕事やけど、そのうちにその二つのストーリー・・二つの世界は様々なフラグメントによって相互にリンクしていく。うーんこの感覚はとても刺激的だ。実際。読んでみなくちゃ体感できないかもね。

 ううん感想文というより解説文になってきた気がする。感想。うーん・・・まあ授業で扱ったということもあるけど、「自己」と「他者」の関係、もしくは「主観」と「客観」の関係について、深く考えさせられた。まあそれについては別のところで。今はこの本の感想ということで、特に「自文化」と「異文化」の関係について、考えてみたいと思います。

 ぼくの体験から、話しますね。

 「異文化を理解することなしに、自文化を理解することは不可能だ」専門英語のK先生はそう仰る。ぼくはその言葉を奇妙に思いつつ、しかし何か惹かれるものも感じつつ、メキシコに行った。ぼくはそこで、「ぼくは日本人やけど、今はメキシコ人やで」と言い放ちながら、少しでも彼らの文化に入り込もうとした。しかし今思うのは、ぼくはそこで見聞きした様々なことを「日本人である我」の視点を外して見ることはできなかった、ということだ。常にぼくの興味を惹くものは「日本とは違う」もしくは「日本と似ている」 というある確固とした視点、判断基準のフィルターを通してぼくの中に入ってきた。

 アメ人の人類学者が「解釈」するマチゲンガの神話と、語り部が「描写」するマチゲンガの神話が全く違うものであるということに気づく。何故違うのか?視点が違うからだ。態度が違うからだ。人類学者は、タスリンチやその他、様々な単語が指す内容を知っている。神話がどういったストーリーであるかを知っている。言語学者はそれぞれの形態素がもつ指示対象を明確にしようと躍起になり、構造主義者はマチゲンガの神話を他の文明の神話と比較して共通点を見つけようとし、心理学者はどうして彼女らがこうもたやすく死ねるのかを考えるだろう。しかし、それがどうした?といわんばかりに、語り部は、語り続ける。マチゲンガという民は、語り部の中に、彼の話を聴く者の中に宿り、息づいている。

 つまり、ぼくは日本人だった。メキシコ人ではなかった。それをほんとうに実感したのは、日本に帰ってきてから「ここではぼくはギターを弾くことができない」と認識した時だった。メキシコでは、路線バスに乗せてもらっては弾き語りをしていた。しかしここでは、道端で弾く、ただそれだけのことにでも、目に見えない抑圧が襲いかかる。この抑圧を感じ、その中で生きる者、それが日本人なんだ、と思った。ぼくがこの抑圧を認識できたのは、「日本人である我」の視点から物事を捉えながらも、少しだけでも「メキシコ」の中に、弾き語りという手段をもって、飛び込んだからだと思う。マスカリータの様に。

 その意味で、「マチゲンガ」に深く噛み付かれたマスカリータはもはやユダヤ人ではない。彼が話すタスリンチ・グレゴリオはグレーゴル・ザムザではないし、キリストはキリストではない。それらはもう「マチゲンガ」の一部に取り込まれている。この赤毛の語り部は、自らが「生まれる前に」見聞きしてきたことを、「二度目に生まれた後の」視点で眺め、描写した。彼は、例えば不具の赤子を殺してしまうことに疑問を感じるところ等で「変革者」のようにみなされそうだが、ぼくは違うと思う。彼はただ、自らが見聞きしてきたことを、描写する。彼は、「マチゲンガ」は本質的にダイナミックなものであると知っていて、だからこそ「これが少なくとも私の知っていることだ」と言い置いて、その瞬間から始まる、聴いていた者同士の果てしないお喋りに席を譲る。

 自文化とは何か、異文化とは・・・?そうゆうことを考えさせてくれる一冊でしたね。

02年7月29日