ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』

 「面白い」本と一言で言ってもいろいろありますが、ぼくはいつも「divertido」と「interesante」 の二つに分けることができる、と考えています。前者に属するのは、例えば最近読んだ『蜘蛛女のキス』であり、エルネスト・サバトの『トンネル』です。ボルヘスの作品は後者に属します。両方とも「emocionante」であることには変わりはないのですが、後者はより”知”に訴えかけてくるものがあると感じます。ボルヘスの作品は、いろんなところで言われているように、まさに「知の迷宮」に読者を引きずり込み、そこで彷徨いつづけることを強いるものです。

 

 「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」について

 実在しない国について描写するということはそんなに珍しいことではない。スウィフトは『ガリヴァ旅行記』で、トマス・モアは『ユートピア』で、サドは『食人国旅行記』でそれぞれ架空の国を想定し、それぞれの意図のもとに描写している。違うのは、上記の作品中のどの国も、「誰かが」「その国を」見聞きし、描写したという関係性、つまりメタレベルとオブジェクトレベルの揺るぎない関係性の中にあるが、ボルヘスが挙げるこのトレーンという国はメタレベルに侵入してくるのである。1940年にサルト・オリエンタルで書いたとする彼のこの奇妙な、知られていない国についての文章は、ただの「奇妙な、知られていない国についての文章」の域を出ない。問題は1947年の「追記」である。ここから、先程までメタレベルであったボルヘス、「知らざるボルヘス」はトレーンについての描写もろともオブジェクトレベルに転落し、「知ってしまったボルヘス」が語りを引き継ぐ。彼は偶然真実を知る。そしてその人工の国は、少しづつメタレベルにある彼、もしくは、彼の世界に影響を与えるようになる。

 構成もそうだが、内容もとても興味深い。例えば、彼が「バベルの図書館」の中でも書いている「プロトタイプ」のイメージがある。ハイメ・サビーネスもある詩の中で近いことを書いていた。これはプラトンのイデア論にさかのぼると思う。また、自ら複写する事物、フレーニールは、北欧神話のオーディンが持っている、「九日めの夜ごとに、じぶんとおなじ指輪を八つずつ生む」ドラウプニールの指輪がモデルだろうと思う。彼は様々な古今東西の様々な思想を採りこみ、セッションさせるが、そこはもう「ボルヘスの世界」である。メキシコでボルヘスを研究していた先生が「彼は自らの思想を表明するというよりも、様々なものと”戯れている”という感じがする」と仰ったが、正にそんな感じだと思う。

こんな風にボルヘスは自分の作品の中で様々なリンクを設定していく。本のタイトルが『FICCIONES』であるのに、実在の人物や事物を放り込むから、読者はどこまでがフィクションで、どこまでが現実なのかわからなくなる。アメリカのホラー作家ラヴクラフトが『ネクロノミコン』という本を想定し、その世界の構築に他の作家達が加担していった結果立ち現れた作品群に相対した時の印象に似ていると感じた。

「円環の廃墟」について

 この作品の中でも、「トレーン・ウクバール・テルティウス」とはまた別の形で、メタレベルとオブジェクトレベルの問題が提起されている。文頭に辞されているのがルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』からの興味深い一部分であるが、この作品ではこのアイデアをより膨らませている。魔術師は、ある男を夢見る。しかし、その男を夢見た彼もまた誰かに夢見られていたことを悟る。これは、理性に拠って全てを征服出来ると信じていた人間が、実はそうではないこと、理性とは自己存在における氷山の一角であり、自分はその水面下にある不可知のものに操られているのだと悟ることをイメージしているのではないかと感じた。この魔術師がある男を「想像」=「創造」するとき、魔術師は神であり、まさに神がアダムを造った同じやり方でその男を造る。この時点で、魔術師は造られた男の上に立つ。しかし自分もまた、他の誰かの手によって造られ、彼の下に位置することを知ったとき、彼は畏怖と、奇妙にも同時に安堵を感じる。それは自分が炎によって損なわれることがないことへの安堵ではなく、自分もまた誰かの夢の中に存在しているのだという安堵、だから自分は絶対ではないという安堵である。彼は上と下、主体と客体という二項対立の世界にではなく、それらが絡み合う結節点の中に居る。

 夢

普通私たちは、「夢を見ている状態」と「覚醒している状態」を明確に区別することができると考えている(三島由紀夫は『鍵のかかる部屋』で、私たちが夢の中でするある残虐な行為が、現実世界でそれをしないためのはけ口になっている、と書いていた)。しかし時々、その区別が曖昧になり、ある記憶が現実によってなのか、あるいは夢によってなのか、わからなくなるときがある。ある友達は「夢の中で」自分の仕事をこなしてしまい、目が醒めてから発見した仕事の山に混乱を覚えた、と言っていたが、そういったことは実は誰しもが経験したことであると思う。ボルヘスは夢と現実の境界線を好んで曖昧にする。『人生は夢』の哀れな囚われ王子の混乱を読者に体験させようとする。

自己と他者

 私が他者と向かい合うとき、私は彼を見、声を聞き、手に触れる。そして彼を自分の中で再構築する。この過程は、「想像された物は存在する」という点でかの魔術師が試みた事と同じである。多分、私が再構築したA君と、B君の手によるA君は違うだろう。どちらが本物というわけではなく、両方とも存在する。つまり、他者は想像された分だけ存在する。ルイス・キャロルやボルヘスは主客の対立関係を相対化し、「捉える」者が、何者かに「捉えられる」ことによって存在している、つまり、存在原因を他者に依存しているという可能性があるということを指摘する。