ガルシア・ロルカについてのレポート

 

ガルシア・ロルカの「イェルマ」「ドニャ・ロシータ」「ベルナルダ・アルバの家」を読み、引き続いて「ガルシア・ロルカ評伝」(小梅永二、読売新聞社)を読みました。

 解説を読む前に、彼の作品の中で、僕に最も大きな印象を与えたのは、「ベルナルダ・アルバの家」でした。始まりの所から、何かがおかしいという違和感、不安感が付きまとい、それがゆっくりと姿を現してくるような、そんな不思議な感覚を味わいました。僕には、最初の方の「女中」と「ラ・ボンシア」の間で交わされる台詞の反復が、陰鬱な部屋の片隅に置かれた壊れたレコードが同じフレーズを繰り返しているような、そんな不安感を感じさせるきっかけになったと思います。そしてそのフレーズは劇が進んでいくにつれて次第に上ずっていき、アデラが首を吊る所で頂点に達する。しかしそれでもその違和感が解消されることは無く、ベルナルダが空しくそれを取り繕い、隠そうとすることがかえってその裏側の赤裸々な実態を浮き彫りにする結果となる。何かがおかしいという感覚は決定的なのですが、その「何か」とは一体何か、ということがうまく捉えられませんでした。

 解説を読んで、この作品が事実を元に作られたことを知り、僕は少なからず驚きました。彼はこの「事実」を、どのように受け止め、あの時代に何を提示したかったのか。「女性」をテーマにしているという点で、残る二作にも何か共通したものがあるのでしょうか。

「ベルナルダ・アルバの家」

 閉じ込められたマリア・ホセファの叫びが、見る者の不安を誘う。そして女中とラ・ポンシアの歯に衣着せぬ会話が続いていく。私達は一番最初から、他人の家の内部(心の内部)を覗くような恐ろしさを感じる。

 ベルナルダ・アルバは、徹頭徹尾、自分の役割を果たし続ける。彼女から感じられるのは既成の道徳観や体裁を繕うことへの狂おしいほどの執着と、それを自分が支配する世界に居る全ての者に強制する不機嫌さだけで、その態度が劇を一貫しているので、その意味で、彼女に人間的な感情の動きは無く、機械的だ。そして、その機械的な支配によって彼女が守ろうとするのは、家の内部ではなく、外側だ。

 

 ベルナルダ「いいかい。井戸には近づかせたらダメだ!」

 女中    「落っこちでもしたら、大変ですからね。」

 ベルナルダ「いや、違う。あそこは、隣の家から覗かれてしまう。」

     

 ベルナルダ「とにかく、あの娘はからかったんだ、て言ってんだ。他に何がある?」

 ラ・ポンシア「そう、思ってんですか?」

 ベルナルダ「思ってなんかいない。しかし、そうなんだ。」

 この家の秩序がぎこちなく取り繕われたものであることはもうわかっているのだが、次第に登場人物達はそれを露骨にあらわすようになっていく。秩序を乱す者に対しベルナルダは「杖」で制裁を加えていく。しかしそれは表面的な制裁であって、「家の外側」に対してのものでしかない。そして「家の内側」では確実に何かが形づくられていく。家のなかにいながらの傍観者であるラ・ポンシアはそれに気付いていて、アデラを留めようとし、またベルナルダに勧告もするが、アデラも言うとおり「誰も起こるべきことは、止められない」。マルティリオと対峙することで、アデラは決定的に「異端者」の立場を明らかにする。この家の秩序が内側から崩壊したことが、明らかになる。

 「村中から咎められ、炎の指で焼かれ、操を守っていると言っている女の人たちから追いまわされようと、あたし、みんなの前で茨の冠をつけてやるわ」と言い切れる彼女にとって、ベルナルダが狂信する秩序はもはや何の意味も為さず、ベルナルダが持つ、「体裁」や「社会的規範」を象徴する「杖」は真っ二つに折られる。この場面は、「既成概念にすがる者」に対する「自らの信仰に真に忠実な者」の勝利を表わしていると感じた。

 しかし、「あたしに指図できるのは、ぺぺだけなんだから」とアデラが言う程に愛した当のペペはたった一発の銃声で逃げ出し、それを誤解した彼女は首を吊って死んでしまう。これは、滑稽とも言える程の不条理ではないだろうか。そこが不可解に思った。なぜ、彼女は死ななければならなかったのだろうか・・?彼女の「秩序からの逃走」は、「死」によってしか完結されないものだったのだろうか。

 彼女が死ぬことによって、「秩序」の破壊は決定的なものとなる。それでも、ベルナルダは何とか取り繕おうと声を嗄らす。しかし彼女はもう「杖」を持っていない・・・

 ぺぺは、この劇中に決して姿を現さないが、登場人物を通して垣間見える彼の人物像は、とても人間的に魅力があるとはいえない、「普通の男」だ。だから、アデラにとってのぺぺとは、「目的」ではなくて「手段」に過ぎないものなんじゃないかと思う。

 

「イェルマ」

 イェルマは、子供を欲しがる。フアンはそれを嫌がる。最初、ぼくはこの作品がよくわからなかった。彼はなぜ性欲を抑制しようとするのか。彼は子供を欲しがらない理由を「何の苦労も無く、お前に平穏な生活をして欲しいから」と言っている。でも、イェルマは、子供が自分の負担になるかもしれないということを知っていながらも「今」自分が何を欲しているかを考える。「あたし、明日の事なんか、考えてません。今日のことだけ。」という台詞が、それを示している。ここで、常に未来を念頭に置くフアンと根本的に食い違うところがある。

 しかし、将来の苦労だけが、フアンが子供を欲しがらない理由なのだろうか。

 イェルマ「じゃあ、あなたは私になにを求めてたの?」

  フアン「お前そのものだよ。」

 イェルマ「そお!あなたが求めてたのは、家と平穏、それに女を一人。それだけ。そうでしょ?」

  フアン「そうだ。男はみんなそんなもんだ。」

 そして、イェルマはフアンを殺し、言う。

  

 イェルマ「・・・・あたしは自分の息子を殺したのよ。そう、この手で自分の息子を殺したのよ。」

 フアンは、自分の息子にイェルマを取られたくなかったから、息子をつくりたくなかったんじゃないだろうか。子供さえつくらなければ、二人は「穏やかに、楽しく」暮らすことが出来る。つまり、フアンはイェルマに「妻」と「母」の両方を期待していたのかもしれないと思った。そして、フアンもまた、ベルナルダのように、「家」に縛りつけようとする。

 「ドニャ・ロシータ」

 ロシータは、帰ってこない婚約者を待ち続け、周りからどんどん取り残されてゆく。彼女は、自分が捨てられたことを、既に知っている。それでも、確固としたものを持ち続けるために、そこから動くことが出来ない。彼女は何も変わらず(年は、とっていく)、周りはどんどん変わっていく。何度か出てくるバラの詩は、移ろい行くものをあらわしている。ロシータは、「可哀想に、女には自由に息をする権利がないのでしょうか?」とつぶやく。

 一貫してロルカが言っていることは、「かわらないもの」にすがることから「うつりゆくもの」に身を委ねることであると思う。既成概念に囚われたままで生きることは、ある意味では、容易いことだ。なぜなら既成概念は、自分で探し出すことも無く手に入れることができるからだ。生きていく支えとなる「杖」は、誰かが(親や家族が)差し出してくれる。自己を見つめることもなく時を過ごすことに慣れれば人は容易にその「杖」が自分の身体の一部分のように錯覚してしまうが、いずれ、それが折れてしまう時が、また、折らなければならないような時がやってくる。そんな時に、既に折れてしまい、幻となった「杖」にしがみつくものは、ベルナルダのように右往左往するか、ロシータのようにただじっと自分を縛り続けることになる。他方、杖に頼らず、自分の両の足で立とうとするものには、アデラやイェルマのように「異端者」になることが要求される。