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「ギャツビーが何故にグレートなのか?」ついての考察

07年7月17日

「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」 - 第八章

ニックがこのような最大級の賛辞を与える程ギャツビーがグレートなのは、何故?

 ニックが冒頭部分で説明してるように、それはギャツビーが、時間軸上で恐ろしく遠くにあるターゲットに正確に照準を合わせることができる人だから。逆にいえば、それは常人には不可能なことだと言える。つまり、ギャツビーは常人ではない、異端者、それ故にグレート。(わが心の師コリン・ウィルソンなら、諸手を挙げて「アウトサイダー!」と叫ぶだろうか・・・笑。また、ニックの位置付けは、「異端者をグレートと認識できる常人」。)思うに、ギャツビーの異端性は、「記憶」というキーワードで考えれば『メメント』の異端性の裏返し、「照準の正確さ」では『メメント』と同じ。まぁ、もっとポジティヴに言えば、『ショーシャンクの空に』やろうな。「瞬間的な愛の衝動」というキーワードなら、『藤十郎の恋』が裏側に来るか。

 視点を翻して、ギャツビー一人の値打ちもない「みんな」って誰だろうか?と考える。デイジー/トム夫妻、ミス・ジョーダン、ウィルソン夫妻、ギャツビー家に訪れる人々、ギャツビーの「仕事仲間」達・・・そしてニック自身もそこに含まれる。一言で言って、彼らは、「忘れる」人達なのだと思う。恐らく彼らだって、瞬間的な愛の衝動を持っているけれど、彼らはすぐにそれを忘れてしまう。なぜなら、彼らにとってそのような衝動―内的な衝動―は生にとって副次的なものでしかなく、彼らはどこまでも日常性に、具体的に理解しやすい現実の中に生きているから。瞬間的な愛の衝動はその都度忘れなければ、日常性に支障をきたす(もしくは、トムのように、衝動を日常性の中に飼い慣らす)。

 ギャツビーは、過去のひとつの地点で受けた衝動を決して忘れない。そして、その衝動を燃料に、未来のひとつの地点を定め、そこだけを見つめて進んでいく(それは、過去から現在へのベクトルの延長線上にあるのではなく、絶対的で独立した座標としてそこにある)。内的な衝動に軸足を置き、現実をそこに合わせ込んでいく。

 言い換えれば、ギャツビーは(大袈裟に言えば)時間軸を完全に超越できる人なのだと思う。時間軸を超越できない人達("かすみたいなやつら")は、愛の衝動からすぐに手を離す。残るのは、「自分がその時、愛の衝動を持っていた」という記憶の痕跡のみ。恐らく、その時点で、愛はノスタルジーに転化している。つまり、多くの人は、愛のために、というより、ノスタルジーのために生きる(ディカプリオがランボーを演じてた映画を参照)。

 (個人的なことを言えば、ぼくは――もちろん、"かすみたいなやつら"の一員ですが――2004年にドイツに来たのは、愛によってではなく、ノスタルジーによって、だったと思う。今はそう理解しているけれど、その当時はそうは思っていなかった、それはぼくが時間軸に支配されていて、愛とノスタルジー、愛の衝動とその痕跡の区別を理解していないということの証明だと思う。もっとも、その二つの区別は非常に難しいのだけれど。)

 ギャツビーがグレートで、時間軸を超越できるからこそ、『メメント』の主人公(名前、何やったっけ?)もまたグレートで、時間軸を超越できる。彼の場合は愛の衝動ではなく、復讐の衝動(しかも、その衝動自体が、彼自身が仕掛けたもの!)であり、もともと時間軸から切断された存在であるが故に(彼の時間概念は、過去→現在→未来と続くものではなく、記憶という痕跡が無いために、常に新しい瞬間を瞬間的に生きている。その代わり、刺青という仕掛けを借りながら、復讐の衝動をその瞬間風速そのままに保存している。恐らく、彼は「グレート」であるというより、「パーフェクト」だろうな。

 では、ギャツビーはなぜ「グレート」であって、「パーフェクト」ではないのか?ひとつには、彼の現実が彼の生について来ていないという事(物語後半で、彼の仕事の破綻を匂わせる電話が・・)もうひとつには、この物語最大の見せ場である、トムとデイジーとギャツビーの修羅場で、この上なく"かすみたいな"デイジーがステップを踏み外し、爽快な略奪愛の物語がドブ板になってしまった点。時間軸を超越できる彼が、デイジーのしくじりによって初めて時間軸に捕われ、照準を外し、過去から現在への延長線上に未来を置くようになる。 これは悲劇でしかないと思う。いかにその愛が誠実で、彼が強靭にそれを貫いても、救いは無いという悲劇。人間が死すべき存在である以上、決して時間軸を完全に無視して生きることはできないという悲劇。

 ギャツビーは身を挺して、そのような真実をぼくら、"かすみたいなやつら"に見せてくれる。だからぼくは諸手を挙げてニックに賛成し、ギャツビーにグレートの称号を与えるだろう。

 

 ちなみに、この村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を読む前に、多分20歳の頃に、別の人(誰か忘れた)の訳本を一度読んでいるのだけれど、全然印象に残ってなかった。「あ、そう」ぐらいのインパクトしか無かったんじゃないかな?物語の筋なんてほぼ完全に忘れてて、読み進める中で「そうそう、そういえば、こんな感じやった」と思い出していった感じ。逆に、27歳のぼくがこんなに気に入る本を、20歳のぼくは何故何も感じなかったのか? 恐らく『華麗なるギャツビー』というタイトルだった、その本をもう一度読み返してみたい、参考までに。