05年11月29日

フランス出張の帰りに、電車の中で。

「この感情をきみと共有できる/できたという保証はどこにも無い。じゃあ、ぼくはなぜ、この感情をきみと共有していることを確信できるのか?」

時間は少しづつ流れていく。でも、ぼくの理論は、きみと最後に会った日から動かずに、ひとつの疑問を行ったり来たりしている。ぼくはこの感情を思考することによって、何か新たな結論、ぼくの今後を大きく変えるような強い結論を導き出せると思っている。

ぼくの思考は、ぼくを決して越え出ていくことはできない。なぜなら、<ぼく>と<外の世界>を結びつけているのは五感に対する刺激に起因する科学反応のみだからだ。<ぼく>はまた、五感を物理的に所有している身体そのものが起こす化学反応にも影響を受ける。

ぼくは、感情というのは、ある刺激が意識・無意識のフィルターを通ることによって屈折・歪曲されて、 ぼくの中に無数にある感情のボタンのひとつを押すことによって生まれるのだと勝手に考えてる。この「フィルター」というのは「解釈」という言葉に置き換えてもいい。ヒトは刺激そのものを受け止めているのではなく、刺激を解釈したものを受け止めている(もしくは、そうせざるを得ない)。>>>少し話はずれるけど、これは「言語による世界の抽象化=イメージの共有」とつながってくる。以前きみに書いた天然ボケについてのレポートを参照。

セーヌ川に臨むレストランで、きみと二人でムール貝のワイン蒸しをつつく。きみが「おいしい」と言う。ぼくが「おいしい」と言う。果たして、ぼくらの内部で沸き起こっている感情は同じものだと言えるだろうか?ぼくのその時、その瞬間の感情は、上野で食べたアサリのワイン蒸し(とそれに付随するイメージ)、おろしたてのスーツ(背伸びした僕)、きみをどうやってベッドに誘おうか(とそれに付随するイメージ)、そのようなものが渾然一体となっている。多分きみの中で起こっている感情は、ぼくのものと全く同じではない。ぼくが言いたいのは、理論的には、感情を共有するということは実現も、実証も不可能だということだ。

これ程ストイックに(しかし正直に)感情の不可侵性を定義するぼくでありながら、冒頭の疑問に立ち返らざるを得ない。

きみは、「あなたがある時点でその人に対して感じていた感情と同じものが、私をここまで運んだ」と言った。10月の朝は晴れ渡り、空港は少し混雑していた。ぼくらはいつもと同じようにカフェに座り、果てしないおしゃべりを続けていた。ゆるやかに時間は流れた。しかし時間切れがいつかぼくらを捕まえる。その事実はぼくらの言葉に重力と、速度を与えた。

ぼくは繰り返し繰り返し、そのシーンを想像する。きみの言葉を反芻する。ある感情が沸き起こる。ぼくがはじめて手に入れた、不可解で、「優しい深い感情」。この感情は、他のどの感情とも同じく、きみがそれを感じていると実証する術はない。不可解なのは、ぼくが絶対的な確信をもって、きみがぼくと全く同じものを感じていると思えることだ。

これを宗教的な感情というのだろうか?神が自らと共に居るという証明は無い(もしくは、難しい?)しかし、自らはそれを確信している。

「恋愛感情は宗教的思考か否か?」という問いをずっと前に仕掛けた。回答は、ある時には是であるし、また別の時には否だった。いずれにしても、ぼくはこの「優しい深い感情」を直接的に恋愛感情と結び付けたくない。多分ぼくが(もしくは、ぼくらが)想定しているこの感情は、実際は普通の恋愛感情と少しかけ離れたところにあると思う。ぼくらは並立せず、対立する。きみとぼくの視線は平行ではなく、交差する。

今、「平行する視線」と「対立する視線」のふたつをぼくは想定する。そして「優しい深い感情」は「対立する視線」に属する。

対立する視線 = 優しい深い感情 = 果てしないお喋り = 永遠に近い一瞬 = 沈黙
平行する視線 = 時間、延長線 = 沈黙(しかし別の形の沈黙)

視線が平行するとき、二人は同じ時間を、同じ方向に歩む(ことを想像する)。そのとき、視線は長期的に見て、平行を狙う。そうしなければならない。平行(平衡?)を狙うことが、その共同体の存在意義だから。その視線は遠くを見ようとする、しかし焦点が合わず、ぼやける。実際には、その視線が見ているのは未来ではなく、現在の投影である(10年後に別れることを想定してなお結婚する人は居るだろうか?・・・居ないとは言えない、しかし少なくとも外面的には、少ないだろう)
  お喋りが続く過程で、当然のことながら、二人の違いが次第に浮き彫りになっていく。同じ場所から同じ地平線を眺めていたと思っていたのが、実は別の場所に立っていたのかもしれない、違う地点を目指しているのかもしれないという疑い、不安がよぎる。二人は何かを修正しようとし始める。ここで修正するとは、両者の相違を沈黙で塗りつぶすことを意味する。「語るか、黙るか」の岐路で沈黙を選択するということ、それ自体が、自意識の強い自己をさらにその地点から遠ざけさせる。
*「沈黙=視線を平行させる試み=自己を他者に溶け込ませる試み=自己を融解させるということ」という構図は、自意識の強い、ぼくのような人間にのみ言えることなのかもしれない。ぼくは「言葉の人」であり、発話という行為自体がぼく自身であるような人だからね。

平行する視線には、その二人がある特定の共同体に属しているという共通認識が先立つ(「付き合う」という関係性は、世界で最も小さい共同体のモデルだとぼくはいつも思ってる。「付き合う」という関係性が共同体的関係であるからこそ、それは常に内側への引力を必要とする――時に外側へ敵意を剥き出しにしてまでも。彼氏の浮気を怒る彼女と、内政秩序維持のために外側に敵を求めたリビアの心理は基本的に同類だと思う)ぼくはそれを嫌がる。ぼくはいつも、いかなる共同体からも切り離され、開放されたいという衝動を抱えている。しかし実際は、ひとりの人間は決して全ての関係性(=共同体)から開放されて存在できるものではないということを理解している。過去から未来へと続く時間軸に則って生きていく限り、過ぎていく時間の中で果てしなく交換とお喋りとを続ける限り、ぼくは必ず何らかの関係性に属している。ぼくらはいつも何らかの関係性=繋がりを求める。だからこそぼくはきみを欲しがったのだし、きみはそれを受け入れた。

「Estoy solo」でも「Estamos juntos」でもなく「Estamos solos」の関係性(これは当然、Jaime Sabinesを意識している)。その中で、人は自分を取り巻く全て(自然、環境、人、全て)が自分に対立して存在すること、自分がそれらに対して根源的に孤独であるということ、そして世界をそのように捉えるのが自分だけではないという事を、再認識する。その意味で、この孤独な自己は、孤独なままで、全く別の存在であるきみと同じ辺境の地に立つことを理解する。「優しい深い感情」は、その辺境の地にのみ立ち込め、ぼくたちは同じ感情を呼吸する。」

*「Estoy solo」は「I am lonely」、「Estamos juntos」は「We are together」、「Estamos solos」は「We are lonely (each other)」。ハイメ・サビーネスはぼくのお気に入りのメキシコの詩人。彼が詩の中で恋人たちについて語るとき、なぜ「Estamos juntos」ではなく「Estamos solos」なのだろうと不思議に思ったのだけれど、多分、こういうことなのだと思う。つまり、二人は自分たちを取り巻く世界からも、自分が恋する対象からも永遠に切り離されていることを認識する(二重に孤独)。しかしその認識こそが、彼らをこの優しい深い感情が立ち込める地点へと導く。