異端的性衝動vol.4
「性本能・愛・エロティシズム」

 人を好きになると、私達は言いようのない感情に満たされます。その感情は、決して快いものばかりではなく、時には苦痛を伴うものにもなります。しかし、なんにしろ、この感情は人間がもつ最も強力な衝動の一つであると言うことはできると思います。もっとも旧い時代から、数々の人々がこの感情に出遭い、ある人は哲学、ある人は詩、また別の人は他の芸術作品にその説明できない思いを託しました。オクタビオ・パスも、紛れもなくその一人です。今、彼の批評作品のひとつである『二重の炎』を読んで、(それは決して不変の真理とは言えないのですが)まるで精巧は彫刻を眺めるような印象を受けました。今回は、この本の要約として勧めていこうと思います。

1、「エロティシズムは肉体の詩学」・・・言語と詩、性本能とエロティシズム
2、プラトンの「愛の哲学」→ヘレニズム期の「愛」の萌芽
3、プロヴァンスにおける<洗練された愛>→「愛」が意味するもの
4、パスが考える「愛の構成要素」・・・「性本能」「愛」「エロティシズム」の境界線
5、現代に「愛」はあるのか?―考察 
6、あとがき

1、「エロティシズムは肉体の詩学」・・・言語と詩、性本能とエロティシズム  

 言語と詩の関係は、性本能とエロティシズムの関係に似ている。なぜなら、詩もエロティシズムも、それぞれ言語、性本能と密接な関係にありながらも、本来それらがもつ目的から大きく外れているからだ。言語は、意志をより明確に伝えるためにあるが、詩はメタファーを通して、その単語が本来持っている意味に加えて、また時には全く違う、別の意味を加える。散文の中で「炎」とあればそれは炎でしかないが、詩的表現としての「炎」は炎以外の何かを暗示するだろう。そして、そのような詩的表現が要求するのは、想像力である。
 エロティシズムについても同じようなことが言える。性本能は、疑うべくも無く、生殖を目的としている。しかし、エロティシズムは時に生殖を目的とはしていない。性交に快楽が伴うのは生殖のためである。だがエロティックな儀式においては生殖はしばしば否定され、快楽そのものが追求される。タントラやグノーシス派の儀式では、司祭によって射精が押し止められたり(オウム真理教にもみられる)、祭壇に精液が撒き散らされたりするということが行われたという。
 性的な衝動は、自然なものである。しかし、エロティシズムは自然であると同時に、性を非自然化する。私達が行うエロティックな行為は自然なものであって、また生殖を目的としていないという意味では、自然なものではない。つまり、動物の性愛とは異なるものである。それ以前に、人間は動物の一種であって、もはや動物ではない。人間は、社会的な生き物である。「人間として生きる」ということは、人間という役を演じること、すなわち、社会、言い換えれば、宗教、倫理、思想という幻想の中に生きるということである。人間と文明、個人のリビドーと集団のリビドー、生と死といった互いに対立する力は決して和解させることができない。私達は、そういった諸力の妥協の間に生きている。対立する力は、時には諸力を抑圧し、時にはそれを昇華させる。性本能が、諸力の対立関係の中で、社会的、反社会的な意味を含んで‘社会化’されたもの、それがエロティシズムである。
 対立する諸力は、和解させることができない。だからこそ人を魅了する。生と死、快楽と死のような二重性、対立関係を和解させようとする願望が、人を絶対的な純潔と完全な放蕩の理想へと導く。人はキリストに憧れると同時に、ドン・ファンに憧れる。そして、理想を実現するために社会との絆を断ち切り、ある者は宗教へ、ある者は放蕩者のグループへと向かう。
  社会的なエロティシズムは、宗教的な形態をとる。インドのタントラ教徒、中国の道教信者、地中海のグノーシス派キリスト教徒がそれにあたる。彼らは性的実践を、生殖のためではなく、「聖なるものとの合一」を達成するために行う。目指すものが遥か彼方にある、という点では、純潔を賞賛するプラトニズム、キリスト教に通じるものがある。東洋でも、純潔は精神力を強化し、人間本来の存在から超自然的な存在へと大きく飛躍させる試練であるという考えがあった。エロティックな儀式も、禁欲的な修行も、聖なるものに至るためのそれぞれの道であり、共にエロティシズムの発露である。彼らは、「根源的でしかも至高の他者性」を求める。エロティシズムとは<他者性の渇望>である。
 一方、反社会的なエロティシズムは、放蕩者として現れる。放蕩者は宗教を、聖なるものを激しく否定し、放蕩を重ね、その果てに絶対的な無感覚の状態を見出そうとするが、逆に彼らの攻撃そのものが宗教的なものなのである。つまり、放蕩は宗教を裏返しにしたものである。パスは「サドはプラトンの裏返し」と言い、ブルトンは「サドの無神論は一種の信仰」と言う。社会的であれ、反社会的であれ、エロティシズムは宗教的なものになると言えるだろう。   

2、プラトンの「愛の哲学」→ヘレニズム期の「愛」の萌芽 

 最初の愛の哲学者は、プラトンである。彼は、「プラトニック・ラブ」という言葉があるように、魂の永遠性、不滅性を重視し、滅びゆく存在である肉体は「魂の牢獄」であると考えた。魂の概念はプラトンの愛の哲学の中心にあるものだが、プラトンが考える「愛」は、プロヴァンスにおけるそれとは、またオクタビオ・パスが考えるそれとは異なっている。
 プラトンは愛を、「美の願望」と「不死の願望」がひとつに溶け合ったものだと考えた。私達は美しい肉体を求め、またその肉体の内に美しい子供をもうけさせたいと願っている。そして、その感情が段階を追って純化していくことによって「美そのもの」「不死性そのもの」への願望になり、崇高で、徳高い、絶対的な美の観照、イデアに至るとした。。『饗宴』や『パイドロス』の中で、美しい肉体の観照がもっともすぐれた愛であると述べているのは、肉体が、本質が知覚できる形をとって現れた形象、つまり「イデアの複製」だと考えたからだ。だが、肉体的抱擁は形象を実体に、イデアを感覚におとしめてしまう。だからプラトンは肉体的な愛を認めない。
 パスは、プラトンの思想は「愛の哲学」ではなく、「エロティシズムの昇華した、そして崇高な形」であると考える。プラトンが愛を考えるとき、そこには無形の「美そのもの」や「善そのもの」があって、一個の人格としての「他者そのもの」は無い。パスはこれを「『饗宴』に出てくる文章を読むと、たしかに崇高ではあるのだが、なぜかドン・ファンを哲学者にしたような感じがするのだ」と表現している。プラトンの言う愛の人は上昇して、ついにイデアの観想に至る。ドン・ファンはひたすら転落していき、ついには地獄に堕ちる。ドン・ファンは「まさに、プラトン的エロスを裏返しにした人物なのである」。
 プラトンは、愛の情熱は錯乱であるとして認めなかった。しかしヘレニズム時代への移行に従って、愛の情熱が一方では賞賛されるようになる。ここには、社会的要因が大きく関わっている。民主主義の衰退と強力な君主制の出現によって、人々が私的な生活へと後退していき、政治的な自由に代わって人々に内面的な自由が現れてきた。その自由は、女性の自由、つまり、プラトンにとっては<(エロティックな)対象>でしかなかったものが、主体性を持つことにつながる。女性の自由なくしては、愛は存在し得ない。主体性をもった女性は、恋人を激しく愛し、その愛ゆえに激しく憎む。「愛」と「憎しみ」、「欲望」と「怨恨」といった感情は人間がもつ表裏一体で、解きほぐすことの出来ない感情である。そのような激しい感情をもった登場人物が文学として最初に現れるのは紀元前三世紀、テオクリトスの『魔法使いの女』においてである。もっと後の、カトゥッルス(ガイウス・ウァレリウス、紀元前八十四年に生まれたローマの叙情詩人)の中には、「近代的な愛を作り上げている三つの要素」が描かれている。すなわち、恋人が相手を自由に選ぶことができるという「選択の自由」、愛が違反行為であるという意味での「社会に対する挑戦」、そして「嫉妬」である。これらはどれも、プラトン的な愛には描かれないものであるが、私達が愛について考えるとき、必ず含まれるものである。  

3、プロヴァンスにおける<洗練された愛>→「愛」が意味するもの  

 古代ギリシア・ローマでは、愛は苦しみに満ちてはいるが、素晴らしいものだと考えられていた。しかし、この世界には愛の教義、つまり、愛に関して共有している具体的な理念、実践、行動の総体が無かった。プラトンのエロスは愛の本来的な性質を哲学的・瞑想的エロティシズムに変化させ、女性を排除してしまった。史上はじめて、より高い次元の生に到達するための理想としての愛が姿を現すのは十二世紀フランス、プロヴァンスにおいてである。
 <洗練された愛>は、宗教的・哲学的教義から生まれたのではなく、中世の封建領主が小さな社会を作り上げていた、そんな環境で育った詩人達のグループによって生み出されたものである。それは町人の愛ではなく、宮廷の愛であり、個人的なものではなく、集団的なものであった。恋する男は相手の貴婦人に対して<奉仕>を行った。愛する女性の肉体と顔を見つめることからはじまり、儀礼に従って次に合図、詩の交換があり、そしてふたりが出会う。初期のプロヴァンス詩は、貴族階級の者が同じ階級の貴婦人に宛てて書いた騎士道風恋愛詩であり、そこでは愛は肉体的快楽にたどりついて終わる。後に、貴族階級に属さない職業詩人が現れるが、彼らの多くは性的関係に至ることを容認しない。それは、彼ら職業詩人と貴婦人とを分かつ身分的・年齢的な差が大きくなりすぎてしまったためだと考えられる。アルバ(恋人達の後朝の別れの辛さを主題とする詩)というジャンルがあることから、この愛が肉体的結合を願うこともあり得ると指摘する人もいるが、どちらにしろ、<洗練された愛>の儀礼は詩的フィクションであり、行動規範、社会的現実の理想化されたものであった。
 このような集団的概念が生まれるに至った環境が、この時代にはあった。十字軍によって、とりわけイベリア半島におけるレコンキスタによって、アラブ文化を通して古代ギリシャ・ローマの学問が再発見された。そのほかにも、北欧の国々からオリエントの国々に至る多彩な影響が、十二世紀はじめ、最盛期のフランスには入り乱れ、交錯していた。こうした多様性が人々の心を豊穣にし、ヨーロッパ最初の文明と呼んでも誇張ではない特異な文明を育んだのである。
 プラトン哲学は、イスラム神学によって修正されはしたが、アラビアの哲学者達はそれを色濃く受け継いだ。純粋な愛を賞賛するのはプラトンの流れを汲むものである。ただ、愛を聖なるものに至る道と考える哲学者と、そうではなく、人をより高い次元に導きはするが、あくまで人間的なものと捉える哲学者とに分かれた。イスラム教の主流派にとっては、神と人の間には乗り越えがたい壁があり、よって神との合一をめざす思想は異端だったからだ。それにもかかわらず、スーフィーの神秘主義は神との合一をめざすが、これはそのこと自体がイスラム世界の精神的な豊かさを物語っている。
 愛を人間的な次元のものと考え、プロヴァンス詩人に影響を与えたと考えられるのが、ウマイヤ朝コルドバの神学者、イブン・ハズム(994〜1064)である。彼は『鳩の首飾り』という題の、愛を論じた小さな本を著したが、そこに書かれている印象的な一文が、これである。
・愛とはそれ自体偶有的なものであり、従って他の偶有的な出来事の支えにはなり得ない。
これと殆ど同じ表現が、ダンテ『新生』の中に出てくる。
・愛それ自体は実体として存在するものではない。それは実体の偶有性である。
 ダンテについてはまた後で述べる。が、このふたつの文章が、一体何を現しているか?パスは明快に述べている: 「すなわち、愛とは天使でもなければ、人間でもない(実体のない知的本質、あるいは実体を備えた知的本質でもない)。そうではなく、人間に起こる何か、すなわち情熱、偶有性である。」愛が、神に至る道ではないという、イブン・ハズムとプロヴァンス詩人達に共通する考え方はつまり、それらは神秘主義的思想ではないということである。人間的な、どこまでも人間的なものである。
 ヨーロッパの封建制は男系な縦の絆であったが、イスラムでは首長や領主が、(ヨーロッパのような「女性の自由」はないが)自らを愛する人の奴隷であると明言していたことを、詩人達は取り入れた。つまり、彼らは性別の伝統的な関係を逆転させたのだ。
 また、キリスト教と、ゲルマン民族的なものが、女性の地位の向上をもたらしたことも影響している。ゲルマン民族の女性は、ローマの女性よりもはるかに自由に暮らしていた。先にも述べたように、「女性の自由なくしては、愛は存在し得ない」というのは、うなずける話である。十二世紀フランスにおいては、女性は主体性を持ちうる程に自由であった(夫婦間の貞節はそれほど厳格に守られてはおらず、不義、密通は日常茶飯のことであった)。
 <洗練された愛>は結婚を、女性を拘束する不公正なものであるとみなし、それにひきかえ、婚外の愛は神聖なものであると考えた。これは、ローマ教会と根本的に相容れないものであった。教会にとって結婚とは、イエス・キリストが定めたいくつかの秘蹟のひとつであり、それを否定することはとても重大なことであった。また、詩人達が行った性別関係の逆転は、教会の眼には(それが人間的なものであったにもかかわらず)女性崇拝、女性の神格化と映った。神に対して抱くべき愛を人間に対して抱くというのは大罪である。
 プロヴァンスの文明が終わるとともに、<洗練された愛>も終わりを告げた。しかし、プロヴァンスの詩は、ヨーロッパ世界にふたつの遺産を残した。それは、詩の形式と、愛に関する理念である。<洗練された愛>はダンテに、ペトラルカに、そして二十世紀のシュルレアリスムに至るまで、受け継がれていく。
 ダンテはスコラ神学の中に<洗練された愛>を持ち込むことによって、神学を根底から変質させた。より正確に言えば、彼は愛とキリスト教との対立をより小さいものにした。ベアトリーチェは愛の世界において、一般的な世界における聖母マリアと同じ役割を担っている。しかし彼女は万人を救済するわけではない。大勢の中からひとりの人間をえらぶというのは、愛の排他的側面であるが、これは愛徳に対する罪である。つまり、ベアトリーチェは、愛であり、愛徳であるという曖昧性を持っている。さらに、彼女は既婚の女性であるということは、キリスト教に対する大胆な違反である。ペトラルカが愛した女性ラウラもまた、既婚の女性であった。これは単なる偶然ではなく、彼らは共に<洗練された愛>の原型に忠実に従っていたのだ。彼らの相違点は、ダンテがベアトリーチェを聖女として描いたのに対し、ペトラルカはラウラを貴婦人として描いたところにある。パスはペトラルカを「彼は最初の近代詩人である。つまり、自己の矛盾を意識し、その矛盾を自分の詩の本質に変化させた最初の詩人なのだ」と評している。
 シュルレアリスムは反逆、断絶の精神であったが、同時に西欧の中心的な伝統でもあった。アンドレ・ブルトンは、第一次大戦後に大きく解放されたエロティックな自由を敵視するのではなく、それと「愛」を混同することを拒んだのだ。彼は第二次大戦前の道徳と政治の乱れに対し、唯一の愛が私達の生活の中心を占める基本的なものであると宣言した。
 まとめておこう。ここに示した<洗練された愛>の発生とその系譜、これこそが西欧における「愛」である。プロヴァンス詩人の後継者は、この「愛」を再燃焼させ、再生産し続けた。では、現代は?それについては、後に述べる。  

4、パスが考える「愛の構成要素」・・・「性本能」「愛」「エロティシズム」の境界線

 排他性。自由と運命(障害と違反・支配と隷従)。肉体と魂。これらの理念が、愛を構成していると考えられる。
 「排他性」は、愛のもっとも基礎的な部分である。私達は、他の誰でもない、ある特定の人に惹かれ、そして自ら進んでその感情を受け入れる。愛は、運命的な出会いと、その出会いを選択する自由という、相互に矛盾する要素を持っている。古来、愛する者同士を結びつける牽引力については、様々な考え方があった。プラトンはそれを美の願望と不死の願望の溶け合ったものだと考えた。十五世紀のスペインで書かれた『ラ・セレスティーナ』の中で、取り持ち婆であるセレスティーナは、巧みな弁舌やいかがわしいまじないの力でメリベアの自由意志をからめとり、ついには陥落させる。愛は魔法であるという考えは古くからあるものだが、今も生きている。ルネサンス・バロックの時代には、「磁石」という象徴が好んで用いられた。また、古代ギリシア・ローマの遺産である「四種体液説」と「占星術」が、エロティックな牽引力を説明する基礎理論になった。カルデロン『人生は夢』では、運命と自由意志の間の葛藤が描かれている。ロマン主義者は、新プラトニズムに替えて心理学的、生物学的な説明を持ち込んだが、ここでも愛を宿命的な牽引力と考える点では一致している。「愛は自由な決断から生まれ、しかもそれは宿命を自らの意志で受け入れることでもあるのだ」。障害と違反は、社会的、慣習的なものである。シェイクスピア『ロミオとジュリエット』がこれを如実に語っている。愛とは根源的に社会とは相容れないものであり、愛に生きるということは多かれ少なかれ社会からの逸脱になる。十二世紀プロヴァンスにおいても、<洗練された愛>はキリスト教から攻撃された。現代には恋人を隔てるような城壁は無いが、それに当たるものは存在する。支配と隷従の関係は、愛によって相互的なものとなる。
  ふたつの対立するもの、すなわち肉体と魂の強固な結合が、愛に関するもうひとつの特徴である。肉体に惹かれることがなければ、愛は生まれてこない。肉体という理念の中には、当然「死」というものが絡んでくる。生と死、魂と肉体、自己と他者の和解し難い対立が、愛の一瞬において統合される。一瞬だけ。しかしその瞬間は永遠性を孕んでいる。この瞬間に、人は愛の果実を、他者そのものを見出す。ヘーゲルは「愛は一切の対立を排除し、理性の支配から逃れていく・・・。客観性を無化し、考察を超えた彼方へと向かう・・・。愛において生は不完全なところがまったくない生そのものを見出すことになる」と言う。

 「性本能」と「愛」、「エロティシズム」の境界線はどこにある?愛とエロティシズムはどちらも、性本能を根としている。だが、性本能そのものではない。なぜなら、愛もエロティシズムも、必ずしも生殖を目的としていないからだ。また、対象を必要とするという点でも、これらは共通している。また、愛はエロティシズムと切り離しては考えられない。人間が肉体に惹かれるとき、それはその肉体をエロティックな対象として捉えるからだ。しかし、愛とエロティシズムの決定的な違いは、エロティシズムは対象の彼方に何かを見出そうとするのに対し、愛は他者そのものを求めるという点にある。サドにしてもプラトンにしても、必ず対象を必要とするが、しかし対象は通過点に過ぎず、目指すものは対象の向こう側にある。彼らが見つめるエロティックな対象には主体性が無い、または、彼らはそれを認めようとはしない。一方、愛する者が求めるのは、対象の向こう側ではなく、「他者そのもの」である。彼は恋人を神格化するのではなく、「その肉体」に「その魂」を宿した、独立した一個の人格として捉えようとする。愛はどこまでも人間的で、かつ悲劇的なものである、なぜなら、肉体は儚いからである。「死」は例外なく私達を捕まえる。エロスとタナトスの間で揺らぐ人間、彼らが「死」を真正面から見つめるために考え出した回答のひとつが、愛である。「愛は死を打ち負かしはしないが、生の中に死を統合する」。パスは、三者の関係を「性本能は根、エロティシズムは茎、愛は花」と形容する。  

5、現代に「愛」はあるのか?―考察
 

 プラトン以後の伝統は魂を賞賛し、肉体を蔑視してきた。しかし愛の伝統は肉体を重視してきた。現代の社会はプラトンとは全く逆に、魂の概念を否定し、人間の精神は肉体的な機能の反射でしかないと考えている。古来魂の領域であったところのものが、生物学その他の発達によってニューロンやシナプスに置き換えられてきた。今では、生命は、幾つかの酸が結合して生まれたものでしかないと考えられている。魂という理念が変化したことは、異端審問所と強制収容所を比較してみれば明らかである。異端審問官は犠牲者が人間であることを忘れなかった。彼らは肉体を滅ぼそうとはしたが、魂は出来れば救いたいと考えていた。しかし、強制収容所においては、犠牲者達は肉体よりも先に魂を失っていた。つまり彼らは人間としてではなく、思想的カテゴリーとして抹殺されたのだ。人間から、魂を、自由意志を、アイデンティティを奪い、単なるメカニズムのひとつとして考える、そのような社会をヒトラーやスターリンはつくりあげた。全体主義国家は文字通り人類史上はじめて現れた<魂のない>権力だった。
 魂は干からびてしまった。そして、エロティシズムもまた、金と宣伝によって骨抜きにされた。もっとも、ポルノグラフィーや売春といったものはとても古い時代からみられるものである。しかし、過去はそういった性産業が信仰や禁止に対する違反であったが、今はそうではない、又は、うまく正当化されているということが重大なのである。つまり、エロティックな願望は自然なものだから正当だ、という理屈である。その理屈によって、性の反乱も正当化される。しかし何度も述べたことだが、エロティシズムは自然なものではない。それは、一言で言えば、「性本能が社会化されたもの」である。性の反乱の最終的な結末は、エロティシズムの消滅と、もっとも高く、もっとも革命的にそれを表現した愛という観念の消滅につながるだろう。
 タナトスはエロスの影である。ボッカチオ『デカメロン』や、G・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』が、病が大流行している場所を舞台としているのは偶然ではない。生と死、快楽と死は切り離せない関係にあるのだ。しかし私達は、死はかつてないほどに遠い場所にあると考えている。近代医学の発達は、私達に(実は迷信に近いのだが)信仰ともとれる信頼を与えた。それと同時に、余りにも自然をうまく支配できるようになったからだろうか、自然の攻撃に対する防御能力が退化した。
 大雑把に言えば、現代はこのような危機にある。だからといって、パスは過去を懐かしんでそこに戻ろうというのではない。ただ、様々な面において現代の危機的な状況は確かであり、ここから何かなすべきことがあると考える。「愛を消滅させてはならないと考えているのなら、男と女に関する新しい見方、個々の人間が唯一の存在であり、アイデンティティを備えているのだという意識を取り戻させるような見方をまず見出さなければならない」とパスは述べる。
 愛とは、何か。それは、世界という全体性との和解、過去―現在―未来と流れる、連続していく時間との和解、一瞬の中の永遠性の知覚である。愛は死に打ち勝つことは出来ず、私達を死と向き合わせる。私達は愛の中に、生と、死を、対立するふたつのものを、受容する。

5、あとがき

 ・・・「他者を他者としてとらえる」という言葉に、長い間こだわってきました(とらわれる、ではなく、こだわる、と書いておきます)。『二重の炎』を読んで、パスが言わんとしている「愛」は、これに近いもののように思えました。ひとを、愛する、ということ。ぼくは決して、彼がここに示したものが永久不変の真理であるとは思いません。ひとの数だけ、愛の捉え方がある、それでいいと思うし、また、それが彼の望むことだと思います。「永遠性をもつ瞬間」とか、そういうことは(実は、ぼくにとっても)どうでもよくて、きみの、肉体と、魂を愛して、キスをして、セックスをする。それ以上でも以下でもない。それでいいと思う。ほんとうに。  だれだって、そんなことはわかってる、それでも人は愛をテーマにして詩を書き、曲を描き、絵を描く。なぜ人がそういったものをつくろうとするのかについては、考えないことにしましょう。答えは明白、それに考えたって無駄です。それを考える時間を割いて、ぼくはきみへのうたをつくることにしよう。

読んでくれてありがとう。

ほりうちしょうご

出典:『二重の炎―愛とエロティシズム』オクタビオ・パス/井上 義一・木村 榮一訳、岩波書店  



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