天然ボケについて。 
 01/3/31

 天然ボケについて、みんなにいろんな意見を頂きました。ありがとうございます。さて、これが結論!とまでは言えませんが、とりあえず今のところ、思うことを書いてみようと思います。ぼくは男の天然ボケには興味がないので(笑)ここでは女の子の天然について考えていきます。  一通り、天然ボケという人格についての意見に目を通してみると、よく一般的に言われるような特徴がよく掴めます。大きなものを挙げてみると;
・ぽーっとしている。
・男ウケはいい。それを女の子も気付いていて、「エセ天然」ということをやらかす人間も居る。しかしその子が本物か、そうでないかは、すぐわかる(らしい)。
・よく人の話を聴いていない、もしくは、話が飛ぶ。
・自分は天然ボケではない、と自覚している女の子は、同姓の天然ボケをかわいいと感じるか、うっとおしいと感じるかで意見が分かれる(半々くらい)。他方、男の子は大半が天然ボケをよろしいと感じる(これはちょっと独断的)。
 どっちにしろ、天然ボケという人種は、一般人(という線引きがどこにあるのかは定かではないが)とは別のところに自己意識があり、そのズレ具合が、人を良くも悪くも奇妙な感じにさせるのでしょう。具体的に、意見を見ながら、検証していきましょう。まずは、この子は天然じゃないとぼくは思う、Rさんの意見。

「天然ボケってなんやろなあ。うーん。ある意味非常識というか、世間知らずやけど、キャラクター的にそれが許されてしまう人の事かな。愛されキャラやね。」

 「キャラクター的にそれが許されてしまう」これはいいとこ突いてます。ただ、多分天然ボケの子は違うところにいるから、自分の行為が「許されるべきもの・許しを請うべきもの」だとは感じてないのでしょうね(笑)「世間知らず」は辛辣やなあ(笑)いや、いいですよ。ここにも、ひとつのヒントがある。つまり、天然ボケじゃない(と自覚している)人(便宜上、「非・天然」と名づけることにしましょう)には、「これが現実」という確固とした概念があり、それは世間一般において共通のものであると思っている。そして、そこから逸脱していく者に対し「世間知らず」と感じるのでしょう。さて、話がまとまるように、ぼくが独断と偏見で「この子は天然ボケじゃないなあ」とおもう人の意見を先にいきましょう。次は、うーん、この子は微妙なとこやけど、違う、Sさんの意見。

「でも今は'天然ぶる'という表現もあるくらいだし、誉め言葉の一種なのでは?嫌な気はしないだろうとおもい、誰でもボケた人に出会ったらそのように表現してます。天然ボケはマジボケの一種であり、ボケはボケでも周囲に不快感を与えず、可愛げがあると判断されるもの。だと思います。」

 可愛げがあると判断されるボケ。じゃあ、可愛いと判断されないボケがあるんか?あるんですね、これが。ひとつに、ボケの程度による線引きがある。人によって違うだろうけど、天然ボケの子を可愛いと思う人も、症状がひどすぎて会話もままならない状態だと、いらいらする。もうひとつは、「天然ぶる」子。ここでひとつ、はっきりと言っておきましょう。天然ぶってるアナタ。自分で「演じてる」と気付いてるうちはまだ大丈夫です。やめときなさい。天然ものの天然ボケは才能ですから、意識して演じることは不可能だと思います。そして、天然ボケの子に対して抱く「可愛い」は、別次元の存在にたいする好奇心を多分に含んでいて、その意味ではもはや純粋な意味での「可愛い」ではない。天然ボケじゃない子が男の子に絶大な支持を受けたいと思うなら、もう一方の極・・「魔性の女」をめざすしかないと、ぼくは思いますが。
 てゆうか正直、ぼくの周りにも「ぶってる」人が居るのかもしれないのだけれど、ぼくには全く判別することができない。やっぱり同性のほうが、それを見破る目をもってるのでしょうか。ここでTさんの刺激的な(破壊的?)意見。

「大体ほんまに天然かそうでないかなんか男の人はどうでもええやろし。」

 うーん・・どうでもよくは無いとぼくはおもうんやけどなあ。気付くことができない、ということがもうどうでもいいことになってるんやろうか。でもぼくは未だに、ぼくが好きになった天然ボケの子は全て本物であったと信じてます(笑)イヤ別に天然ボケの子を狙ってるわけやないで。とりあえず。Tさんの意見をもうちょっと、続けましょう。彼女の意見はものすごく示唆的です。

「天然ボケ名人は自分が天然なことをけっして認めないね。自分で天然や言う奴は大概そんなことないね。例外はもちろんいるやろけど、「私って天然だから」って言うたらなんでも許されるとか思ってるんちゃう?」

 なんちゃって天然をこき下ろす目的は、この文章には全くないので(笑)あしからず。目的は全く個人的なところにあるのでして、つまり、「なんでぼくは天然ボケの子に惹かれるんやろ・・?」という素朴な疑問が出発点です。と、それについてはもうちょっと後で。「天然ボケ名人は自分が天然なことをけっして認めないね。」そうやなあ、ほんまに。「これだけ言われてたらいいかげん気付いてや!」て言いたくなることもしばしば(笑)ぼくが思うに、彼女達は、自分が「天然ボケ」とカテゴライズされるか、そうでないかは問題ではないのです。なぜなら、彼女達はぼくたち「非・天然」の人間とは少し違うところに立っているから。「カテゴライズする」というのは、よくも悪くも現代人(に限ったことではないけど)の大いなる癖のひとつですね。以前なにかの雑誌で、ブラフマンが「民俗音楽ハードコア」と言われることを嫌がっていたけど、同じことだと思う。「カテゴライズする」ということは、突き詰めれば「他者を排除する」というところに行き着く。つまり、自分達を「非・天然」と規定したうえで彼女達を「天然ボケ」というワクに押し込める。全てに対してそういう態度をとらなければ、世界を捉えきれないということでしょうか。さっきも言ったように、「天然ボケ」に対する「可愛い」は、別のカテゴリーに属する人たちを奇異の目で見つめるという意味での「可愛い」だと思うのです、根本的なところで。さて、次はTくんの意見。

「天然ボケって、常識では考えられない受け答えをすると、言われるよね!!っていう事は、サラリーマン生活ではやってはダメってことになるよね??でも、その天然ボケが必要な世界って多分、クリエーターの世界では必要なのかもしれない」

 就職活動にお悩みの天然ボケ達に(笑)それも一理あるかなあ。ぼくが今考えているのは、ショキートというスペイン語の先生と、美学のO先生です。失礼を承知でネタにさせていただきます(笑)。大学の先生というのはある意味アーティスト肌だと思います。なぜなら、研究活動は結局孤独な作業で、それは自己との対話になっていくからです。もちろん、天然ボケであれば教授になれるわけではないし、教授になるための条件でもない。しかし、天然ボケという人が、「非・天然」人とは異なる(意識的にも、無意識的にも)現実認識を持っていることを考えれば、Tくんの意見は真実味を帯びてくる。「常識では考えられない受け答え」それはつまり「常識というものに囚われない」ということを意味している。POPセンスはアーティストの必須条件ですね(これは、ほーりーの持論)。さっき、「天然ボケは才能」と言いました。具体的に言えば、それは「一般的な現実認識に囚われない才能」なのです。
 社会は、あなたのその才能を態度能力として読み替え、構造の中に組み込もうとする。天然ボケタレント(西村知美、浅田美代子、中村玉緒等々)は、自分の「ユニークな個性」としての才能を、ぎりぎりまで保持しつつ、しかし本質的にはやはり社会の中に読み込まれているのです。そう、就職するとは、多かれ少なかれ、人間を歯車化することです(べつに悪い意味じゃないよ)。しかし職種の中にはタレントのように、あなたの独立した人格としての才能を要求するものもある。だから、おすすめですね。研究者、タレント、編集者、コピーライター、そして紙一重のアーティスト・・・どれもこれも、旧態依然のカタイ頭では話にならん職種です。「現実逃避」とはよく言ったものですが、これらの職種は文字通り、既成概念としての現実認識からの逃走を図らなくてはならない。ということで、天然ボケの皆様、お薦めだと思うのですが・・・
 しかし、ぼくの思うところ、天然ボケの子は普通、自己顕示欲に欠けていると思う。一般人とは異なった現実認識をもつという類い稀なる才能に恵まれながら、彼女達はその地に安住してしまって、金に結びつける、あるいは自己を社会に対し投企するというアグレッシヴさを持つには至らないのだ。ぼくは、友達にホームページをつくることを訊かれたら「基本的なパソコンの知識と、自己顕示欲をひとにぎりもっていればできる」と答えるようにしてるんやけど(ぼくはパソコンはともかく、自己顕示欲の塊みたいなもんですわ)IT革命のこのご時世、POPセンスとそれを表現する手段と力があれば生き残れる、てゆうか、いい暮らしが出来る(笑)という甘いことを考えているのですが・・・天然ボケHP、おもろいと思うのよ。・・・就職活動、がんばってください。合掌。
 次は、はるばる海の彼方からありがとうございます、Mさんの意見。

「あとね、友達と、天ボケについて語ったとき、ひとつの結論にたどり着いた。それは、だいたいハーフの子は天ボケだということ。興味深いことに、ハーフのこに多いのよ。」

 これもまた興味深い。「天然ボケと言語の関係」これだけでひとつの論文できそうやなあ(笑)外国人の、ハーフの子の、微妙に拙い言葉使いに天然ボケを感じる、これは天然ボケの子の別の側面をぼくたちに提示してくれる。
 今、「言語」と「現実」の関係を考えてみよう。「非・天然」人にとって、現実とは確固としたものである。またそれは、確固とした言語が網の目のように張り巡らされた、限定的な共同体を形成している。「非・天然」人にとっては、この「言語による共同体」つまり日本という国が、根源的な「現実」である。「インドにはまる人は現実逃避型」ということがよく言われるが、それはぼくたちにとって「日本」こそが現実であり、「インド」は非現実であるという感覚を如実に物語っている。
 確固とした現実は、確固とした言語によって成り立っている。ぼくたちは日常、何不自由なく他者と意思を疎通させることができる。それは同じ日本語を話してるからやねんけど、もうちょっと突き詰めて考えればそれは「発信者が発した音によって、受信者が発信者と同じイメージを共有できるから」なんだ。具体的に「牛」という語を考えてみよう。

 あの、牧場で、モォ〜て鳴いてるでかい動物を、ぼくは考えた。そのイメージをあなたに伝えたいと思う。そこで「usi」という発音で、イメージの対象を表す。あなたは、その音を聴き取り、早速頭の中で「usi」に結びついたイメージを探す。そして、あの、牧場で、モォ〜て鳴いてるでかい動物を考える。

 このような一連のプロセスをぼくたちは毎日、超高速で、さほど苦にもせず処理しているわけだ。これが可能なのは、当然ぼくとあなたの両方で「usi」という発音と、あの牧場で、モォ〜て鳴いてるでかいやつのイメージが結びついていること、つまり、発音とイメージを共有していることを前提としている。これは、日常的に意識しないことなので、つかまえにくい考えかもしれない。でも、時に、「愛」とか「神」とか「世界」とかいう言葉を扱う会話になると、それらがとても漠然としたものを指し、さらに漠然としているからこそ、「牛」について言うときのようにうまくイメージを共有できないので、それをうまく伝え、読み取ることが困難になってくる。今、恋人と、「愛」について語らう(笑)ことを想定してみてください。彼が発した「愛」という言葉が、自分が思う「愛」の概念と全く等しいというわけにはいかないからこそ、その会話は果てしなく続いていくのです。そして、いつもより想像力を余計に使うから、疲れる(だから恋愛は面白いんですけどね)。
 実は、「愛」という言葉について言えることが、「牛」という言葉についても言えるのです。「あれ、さっきは、発音とイメージを共有できるて言ってたやんか」と言われるかもしれません。しかしそれは、イメージする対象が‘比較的’具体的であるが故に捉えやすい、といったレベルの問題なのであって、言語という限定された手段によって読み替える以上、完全に等しいイメージを共有するということは根本的に不可能なのです。もういちど、「牛」について考えてみましょう。

 あの、牧場で、モォ〜て鳴いてるでかい動物を、ぼくは考えた。そのイメージをあなたに伝えたいと思う。そこで「usi」という発音で、イメージの対象を表す。あなたは、その音を聴き取り、早速頭の中で「usi」に結びついたイメージを探す。そして、あの、牧場で、モォ〜て鳴いてるでかい動物を考える。

   ここで、ぼくはそろそろ食べごろの黒毛和牛をイメージしていたとする。でも「usi」の発音だけでは、そこまではあなたに伝えることができない。あなたが「usi」という発音を聞き取ったとき、あなたはまだ首に鈴をつけたホルスタインを思い浮かべるかもしれない。さらに、「アルプスの少女ハイジ」の世界を想像するかもしれない。ぼくが日本アルプスを想像しているにもかかわらず。
 でも、ぼくたちは日常会話で、不自由を感じない。なぜなら、会話をするときに、それぞれの言葉の意味についてそこまで厳密なイメージを伝えなくても事足りるからだ。「牛」て言えば、乳牛でも肉牛でもどちらでもいい。その程度のズレは意思疎通に支障をきたさない。ただ、それが専門的な会話になってくれば、より詳しく伝えることが必要になってくる。音楽をたしなまない人にとってはエレキギターもクラシックギターもフォークギターも「ギター」一言で事足りる、でも(自称)ミュージシャンはそうはいかない。まとめておくと、日常意識の中では気付かないのだが、言語に対するイメージは万人に等しいものではなく、それぞれ微妙にズレがある、ということだ。
 そして、この、それぞれ人によって微妙に異なる「言語によって規定されたイメージの世界」こそが、その人にとっての「現実」なわけです。・・・ふうう。「言語」と「現実」の関係、掴めてきましたか?ここで、ハーフの子の話に戻りましょう。彼女が日本人とスペイン人のハーフであったとする。彼女が両方の言葉を流暢に使えるとすれば、彼女は異なる二つの共同体、言語によって規定された社会を経験するということになる。再び「牛」について。外国語を勉強した人ならすぐに気付くことだが、言語は単純にスライドさせてあてはめることは出来ない。日本語では雌雄の区別なく「牛」と言い、区別する場合は「牡牛」「牝牛」とする。しかしスペイン語ではそれぞれに独立した単語があって、牡牛は「toro」牝牛は「vaca」と言う。すると、彼女の中では、発音が喚起するイメージはより複雑に、キレイな言葉を使えば、豊かなものになる。彼女にとって、「usi」という音声が喚起するイメージは「牡牛」でもあり「牝牛」でもある、なぜならそれらはスペイン語共同体の中では区別されているからだ。逆に、彼女が「vaca」という音声を聴けば、「牝牛」をイメージすると同時に「馬鹿」をイメージする、なぜならそれらは音声で結ばれているからだ。
 ぼくは専門的にやってるわけではないので、この「イメージ」と「音声」の関係が、多言語を操る際にどのくらいフィードバックしてくるのかはわからない、でも、ぼくが拙いスペイン語をあやつるときにさえ、(頭がスペイン語的思考に切り替わるにかかわらず)こういうことは起こっている。結論。ハーフの子が天然ボケに見えるのは、異なった言語間で必ず起こる、音声が喚起するイメージのズレが関係している。日本人の天然ボケがハーフの子に見られるそれよりも興味深いと感じるのは、彼女達が異なった言語間ではなく、ぼくたちと全く同じ言語的共同体に属するにもかかわらず同じような違和感を感じさせるところにある。
 続いて、天然ボケに関する、少し否定的な意見。

「この言葉ってどこか虐げられているような、蔑みの意味合いが含まれてると思います。」(N)

「私は天然ボケって表現は「頭悪い」の言い換えやと思うねん。」(M)

 天然ボケに関する、直感的な意見。彼女達が立っている現実認識のズレ具合を、優劣で判断すれば、こんな感じになる。天然ボケという人間は社会的に見ればアウトサイダーでして、社会が提示する、もしくは押し付ける現実認識とは違うところに立っている、それは彼女達を異端者とするのに十分な理由であると思うのです。繰り返し言っておきますが、ぼくがこの文章の中でやりたいのは「天然ボケの社会権」でも「天然ボケがいかに生き残るか」でもなく、「ぼくはなんで天然ボケに惹かれるか」ですからね。ほんまに、なんでやろなあ・・・
 彼女は、天然ボケです。ぼくにはわかります(笑)Mさんの意見。

「うー、どうでしょう。難しいなぁ、私って変わってるのかしら?バイト先でも相当変わってるって言われるけど。でもまわりにも天然ぽい人がいるよー。・・・・・なんか私って常に天然ボケじゃない気がするよ。」

 他人に天然ボケと言われるものの、自分でもどうかと思う、そんな天然ボケの子。ぼくが思うのは、彼女にとっては根本的に、自分が天然ボケかそうでないかはどうでもよいことであり、だから人にそう言われると戸惑ってしまうのです。そして、表面的にはぼんやりしているが、水面下でいろんなことを考えていることを、ぼくは知っている。

「なんかすごく考え事してる時に、「あっちゃんまたポケーっと自分の世界はいってるよ〜。おもろーい」とか言われると、「ちがうわ〜い!真剣に考え事してんねーん!」っていつも思うよ。」(A)

「実際、よく「頭悪そうやなぁ」とも言われるし。私、自分のこと、結構「物事を深く考えるタイプ」やと思ってるねんけどね。」(M)

 最後に、おもうこと。天然ボケの子は、ぼくに一風変わった現実の像を見せてくれる。ぼくは一般的な現実認識に疑いを抱いていて、そこから逃避しようとする。その場所が、彼女になるのだと思う。「逃避」といっても、ぼくが逃げ出したところと、逃げ出す先とのどっちが本当の現実かは、だれにもわからない。それを決めるのはぼくであり、ぼくらである。「天然ボケは時差ぼけ」というのは正しい。現実認識のズレは時差そのものだから。限りなく現実に近い幻想と、限りなく幻想に近い現実。彼女は、それらふたつが交錯する場所に立っている。
 そんなこんなで。結局、ぼくが惹かれるのは、ぼくが彼女をつかまえることで完全性をつかまえることができると信じているというのが、いまのところの結論です。世に数多く存在する天然・エセ天然のなかで彼女を選んだという事実は、これは謎ですな(笑)この謎は、「愛」の領域に属するハナシで、今日はもう眠いのでそれはまた後日、じっくりとやっていこうと思っています。

 ぼくのしょうもない思いつきに、メールをくれたみんなに、ありがとう。天然ボケの友達に、ありがとう。一生懸命読んでくれたあなたに、ありがとう。ぼくに「もうひとつの現実」をみせてくれるきみに、ありがとう。
 01/3/31
ほりうちしょうご