ほりうち氏のおもうことvol.1 『誘惑と復讐』

06年5月12日

 大分前にこういう形でザクザク書いていたのだけれど、なんか書き散らしてる感があって嫌になったのでやめて別の形にすると、今度は筆が全然進まなくなった。これを俗に「精神的便秘」の状態と言うらしいが、これは精神衛生上とても悪いので、やっぱりもう一度「ほりうち氏のおもうこと」で仕切り直すことにする。ほら、もう2行も書けた。やっぱり進み方が違う。

 ひとつの言葉を厳密に突き詰めて、鋭利な刃物のように研ぎ澄まそうとすれば、便秘状態にかなり近くなる。口数が少なくなるのは当然だし、ともすれば言葉という媒体そのものが薄っぺらく、うさんくさいものに感じてしまうことがあるからだ。やはり人は喋るに限る。果てしないお喋りを続けるに限る。

 昨日、スーパーで買い物をしてて、興味深い光景を目にした。4歳ぐらいの男の子が、アイスクリーム売り場の近くで、大声でママを呼びながら泣いている。母親は知らん顔で買い物を続けている。男の子―仮に「カイン」と名づけようかーは、ママの姿が見えているにも関わらず、アイスクリーム売り場付近を一歩も動かない。そしてママを呼び続ける。

 カインは、原初的な「誘惑」の例をぼくに見せてくれているようだった。「誘惑」はゲームの形式をとる。ゲームであるからには、ルールが存在する。そしてカインにとってのルールは、「ここから一歩も動かない」だった。4歳の男の子は無邪気というよりも、戦略的という方が似合っている。彼は泣きながらー泣き声を発しながらー確実に周囲の状況を把握していた。泣きながらぼくを見つめたカインの目は冷静そのものだった。彼はルールを定め、ゲーム遂行のために必要なその泣き声を半ば義務的に発し、そして冷静に状況を見つめている。

 しかしこのゲームでは、カインの勝ち目は本当に少ない。母親が彼のもとに戻ってくる。彼の手からアイスクリームをもぎとり、売り場に放り投げ、彼の手を引いてレジに向かう。この時点で彼は負けている。但し、「アイスクリームを買ってもらう」ことが、このゲームに勝つ要件であるなら。あるいは、彼の泣き声は「誘惑」ではなく、「復讐」なのだとしたら?金切り声を上げることで、自分のことを省みない母親に、<周辺に居る他の大人たち>の視線を巻き込むことで、復讐を仕掛けているのだとしたら?だとすれば、カインは泣き出した時点で勝っている。

 カインは本能的に、自分は愛されるべき弱者であり、そんな自分に対する他人の憐憫の視線は、そのまま自分の敵対者(=母親)に対する憎悪の視線に置き換わることを理解しているのだとしたら?ここに、誘惑の仕草が脅迫の仕草に変わるポイントがある。やがてカインは大人になり、「愛されるべき弱者」でありたいと望み続けながら、生きていくために必要な力も身につけていく。ある日、神に対する誘惑を撥ね付けられ、彼は復讐を仕掛ける。彼の「誘惑=復讐」のゲームが彼の勝利に終わるポイントは、彼がアベルを殺すところではなく、神が彼に未来永劫続く罪を与えた瞬間にある。なぜならこの瞬間に、カインと神はいつまでも消えることのない罪によってかたく結びつけられたからだ。カインの狙いはこの罪によって「神はアベルを選んだ」という事実をかき消すところにあり、それは成功した。

 ・・・いずれにしても、カインが一人前に女の子を口説くようになるには、まだもう少し時間がかかるようで。

 

 なんにしても、罪を核にかたちづくられた関係がとても長くひきずるものであるというのは、個人的に思う。自分をとりまく人間関係がそうだから、そんな事を言うのだけれど。ぼくが今考えている「罪」とは、もちろん恋愛関係にまつわる罪。多分、この「愛の罪」も、わが心の師コリン・ウィルソンが『世界残酷物語』の冒頭で言っているように、2つの方向性がある。すなわち、@狂気に冒された末の罪と、A理性的分析の結論としての罪。

 多分、@はゲーテの『若きウェルテルの悩み』で、Aはマルキ・ド・サドだろう。あれ?反対か?イヤ、これで合ってると思うわ。ウェルテルは、自分の愛のゲームのルールの最後の項に「自殺」を書き加えた(カインが、自分とアイスクリームをめぐるゲームの中で「ここから一歩も動かない」と書き加えたように)。ゲーテはこの本によって、世間一般の恋する男が、正気の上に狂気を塗りつけることを薦めた。一方サドは、「全ての人は自分の欲望を満たす権利がある」という理論の下に、自分のアタマで繰り広げられる陵辱を書き連ねていく(決して彼は狂ってなんかいない!)ぼくは、理由も何も無く、本当に個人的に、Aの罪の破壊力を信じている。カインが@とAのどちらにより多く属すかは、今となっては誰もわからない。でもぼくは今でも、本当に危険なのはAの方であり、カインは確かにAに基づいて罪を犯したのだと思う。