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ほりうち氏のおもうことvol10

07年12月19日

本日のテーマ;引きずるトラウマ的な思いについて (ちょっと、アレです、精神的に不健康な事書いてますね。申し訳ない。)

 

 3年過ごしたドイツを去ってはや2ヶ月。まだ引越し途上ですが、実家のお仕事もまぁぼちぼち楽しくやってます。

 

 今日、クルマに乗りながら考えたこと。多分誰しもがそうであるように、ぼくの心には幾つかの棘が刺さっていて、普段、日常に忙殺されている時には気づかなくても、ふと意識が日常から離れた時にいつもそっと疼き、ぼくにその存在を誇示する。その棘は、進もうとするぼくの足を留め、止まろうとするぼくの背中に潜み、いつもぼくにあるひとつの感情を連れてくる;メランコリックな感傷。その感情は甘美であるけれども退廃的で、ぼくはその感情に依っては決して前に進めないと知ってる。それは恐らくヘラのように嫉妬深い神なのだろう。

 いろんな人がいろんな事を言うだろうけど、ぼくの生が抱えるどこまでも個人的な諸問題の中で、この「嫉妬深い神」の問題は最も厄介なもののひとつだと思う。特にぼくのようにナルシストでサディストかつマゾヒストで、共感へ向かう意志と孤独に閉じこもる意志が同時に引っ張っているような矛盾の塊である人格にとっては、この妬みの神の横顔はとても甘美に、魅惑的に映る。でも、前に書いたように、ぼくはその神に頼っては決して前に進めないと知ってる。ぼくは彼女と和解し、退廃的な誘惑を断ち切る為に、思っていること、思ってもみなかったこと、言葉にしてこなかったことを言葉にして、吐き出していく。恐らくぼくにとっての方法はそれ位しかない。

 今日、クルマに乗りながら考えてたその棘のひとつは、かなり長い間ぼくの中に巣食っているもので、恐らく今後ともずっとお付き合いしていくものなんだろうと思う。

 ずっと昔に一緒にバンドしてた友達が居る。ぼくは結局数年で辞めてしまって、メキシコやら東京やらドイツやらを転々として今奈良の片隅に居る。彼はまだ音楽を続けている。うまく言えないんだけど、ぼくがバンドを辞めてからずっと、ぼくが「音楽」というカテゴリーに足を踏み入れる度に、彼のどこからともなく注がれる視線を感じ、彼の共鳴としての、彼の乱反射としての音楽を思い、果てには「何てバカな事をやってるんだぼくは」という地点まで落ち込んでいく。

 この感情は(今まさにそれを感じているけれど)ほんとにうまく説明できない。音楽はぼくにとって大事なもので、ギターはぼくがどこへ行っても連れて行く伴侶で、詩を書いて、うたを書いて、大好きな人にそれを捧げて、それでいいんだ、それがぼくのコミュニケーションツールとしての音楽なんだ、という地点に落ち着けようとするぼく(私的人間としてのぼく)と、オマエの歌はヘタクソで、いつもトーンを外すし、ギターはズレるし、ドラムはちぐはぐやし、編曲は単純やし、歌詞はちょっと小難しい単語並べて煙に巻こうとしてるだけやし、結論は、やる価値無いってことや、そんなん時間の無駄や、ギター放って仕事せぇ仕事、と囁くぼく(公的人間としてのぼく)のせめぎあいが一方であって、もう一方で陳腐なラブソングを泣きメロで奏でて路上で細々歌ってる暇な大学生を軽蔑して、その反対側で「あ、でも、ぼくの歌って全部泣きメロラブソングやった・・・・」と跳ね返されて自己嫌悪に陥って、そんな自己嫌悪と他者嫌悪の真ん中から見上げるとやはりそこには彼の視線があるような、こんな感覚、あなたにわかるかしら?

 っていう感情を今日久々に持った。これはやっぱり、ぼくが日本に帰ってきたということで、日本に居る限りこの神は追いかけてくる、この神と和解しないうちはメキシコなんかに行けない、という事だな、と、解放されないこころでつぶやく。その昔、別の友達が好んで使っていた「救い上げる」という表現が耳をかすめる。救い上げるのは、ほかの誰でもなく、ぼく自身だとよくわかってるつもり。

・・・と、ブログに「弾き語りやりまーす」とか言いながら、結局何にもやってない自己欺瞞に対するこれは弁護です。こんな所だけ自分に甘いぼくをやんわりと優しいナイフで刺してくれたら結構嬉しいんだけど(笑)