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ほりうち氏のおもうことvol.5

06年11月9日

 相変わらず、女々しいテーマで申し訳ございませんねぇ。へい。何度も言うように、ぼくはキッチュな物事を嫌悪する。それでも愛について語ることをやめないのは、そこに何かぼくの魂をほんとうに揺さぶるものがあって、なにしろぼくの生を規定してきたのがその衝動だからだ。本当に単純に、例えばスリランカ人の彼女が出来たら、仕事辞めてスリランカに飛んでいく、そんなスピードとパワーをいつも失いたくないというだけです。へい。

 9月末にパリに行く頃から、愛を含める人間関係の在り方を少し見直したいと思ってた。

結論;好きなら好きって言う。

単純やなぁ(涙)でもこれが今までのぼくにはかなり難しいことやってん。多分、性的開発がとても遅かったせいで、自分の性的な身体にコンプレックスを持っていることが原因やと思う。つまり、好き=付き合う=セックス、という構図がぼくの頭の中ではとても堅固に出来上がっていて、「ぼくはあなたが好きです」という何の変哲も無いファーストアプローチそのものに、全裸の自分を見せてるような気恥ずかしさを感じてしまう。

その傾向はそれでしゃあないとしても、ぼくももう26歳やし、大人やし、理論的にも感情的にも、自分の性的な身体を優しく肯定していいと思うねんな。

ぼくの日本語世界においては、「ぼくはあなたが好きです」というファーストアプローチ(「友達」の関係から一歩踏み込む瞬間)は二重の意味を持っている。すなわち、あなたがぼくの魂を揺さぶるという事実の表明、できることならその感情の共有 ― もうひとつは、あなたとぼくの間で、何らかの物理的・具体的事象を永続的に共有したいとする意志。便宜的にここでは前者を「魂の問題」、後者を「事象の問題」としよう。

「魂の問題」とは、感情の問題、と言ってしまってもいいのかな?腐るほどいる女の子の中で、なぜ、あなたに対してだけこの感情が湧きあがるのか?という問題。その感情自体は瞬間的なものかもしれないけれど、やがてぼくの魂が形を変え、色を変え、ぼくの存在そのものを変化させてしまうようなもの。多分そこではどんな物理的な議論も入る余地が無い。多分、ぼくとあなたが身体も、魂も違う存在だという事実も、入る余地が無い。(→身体の合一。魂の合一。)

一方「事象の問題」は、「魂の問題」に時間軸を加えることによって生じるジレンマを押さえ込むところから始まる。魂に時間は無い。しかしこの肉体は時間に限定されている。物理的反応に限定されている(養分を採らないとぼくたちはこの身体を維持できない。食べなきゃならない。食べるということは、他を征服するということ=ゲームの開始。この意味で、例えば蟷螂の雌が交尾の後雄を食べるという現象は興味深い) だからこそ「付き合う」「結婚する」とかいうゲームのルールが設定される。恋愛のルールは普通、「永続の強制」「排他性」「罪の共有」「悲劇性」「定量化/定性化」を伴う。

ここにぼくが感じる大きなジレンマがある。ぼくは魂を追求する以上、「魂の問題」を主要テーマにする。でも人間存在はもう生まれたその瞬間から死ぬ最後の瞬間まで(最終的に、絶対に勝ち目の無い)ゲームをやらされ続ける。「魂の問題」について語れても、魂そのものは取り出せない。取り出したところで、取り出した瞬間からそれは時間に飲み込まれ、別のゲームが始まる。そもそも言葉そのものがゲームであるのだから、「ぼくはあなたが好きです」というアプローチ自体、既にひとつのゲームに置き換わっている。

それでもね。ぼくはこの新しいゲームは決して「A(メインストリーム)」に対する「非A(カウンターストリーム)」ではなく、「B(別の―サブストリーム)」であると信じたい。そしてそれが「事象の問題」ではなく「魂の問題」への解答に一歩近づく方法なのだと信じたい。

 

06年11月10日

 相変わらず、パリ滞在の最後の日に出会った彼が言ったことを考えている。「ぼくは彼を愛してるけど、彼がぼくの肉体を束縛する権利はどこにもないんだ。」彼はそれを言う時、「魂の問題」について語っていたのだろうか?それともエロティシズムについて語っていたのだろうか?

 ぼくがオクタビオ・パスを正確に理解しているとすれば、回答はこうなる;エロティシズムは他者性を問題にするのに対し、愛は他者そのものを問題とする。もう少し言えば、エロティシズムは他者存在から性的な身体(とその反応)のみを切り離して取り出すのに対し、愛は他者存在の性的な身体(とその反応)を含めた存在そのものを問題とする。もちろん、魂も。(多分、プラトニックラブというのは――プラトン的愛という意味でも、14歳の少年と少女の”穢れのない”愛という意味でも――エロティシズムの裏返し、または、そのものなんだろうと思う)

 「魂の問題」を真っ向から扱い始めると、それはより強度なエロティシズムを必要とする場合もある。(どちらかといえばそれは副次的なものであるにもかかわらず)それは一般的にスキャンダラスなものとして映る。こうやってぼくは今だにドン・ファンを擁護したいのだけれど―つまり、彼はより高次な問題を考えていたのだ。一般的にみて「色事師」であるという事象は副次的産物に過ぎない、と。

 但し、いかにぼくが彼を弁護できたとしても、その方向性は絶対に正当化され得ない。彼の問題意識は、エロティシズムと愛を別個の問題と捉えるのであって、それは(愛の対象とエロティシズムの対象を同一とし、それ以外に向かう衝動を禁止する)一般的な恋愛感覚と根本的に相容れない。ドン・ファンは、バーナード・ショー的には超人に成り得たけれど、現代の一般的な恋愛感覚的には(オリジナルのシナリオと同じく)地獄に行かざるを得ない。(注;ここで言う地獄とは、客観主義的なものなのだろう・・多分)

 

06年11月16日

 人間の魂は普通、分散していくことに耐えられないんじゃないだろうか?

 ドンファンの生き方を突き詰めれば、それは自分の生を分散させていくことにつながる。肉体は時間という絶対的な制限を受ける。その意味で、彼は彼自身を細かく切り刻み分け与えるしかない。それは多分人間にとって致命的な傷になる。

 しかしドンファンは(そのように細切れになりながらも)決して自己を崩壊させない―むしろ、自らを研ぎ澄ましていく(彼が決闘に勝利できたのは、彼が研ぎ澄まされていたからとしか思えない)。普通の人とドンファンのどこに違いがあるのだろうか?それは、彼が人より大きな生、豊かな生を生きているという事なんだと思う。生の母数が大きいからこそ、分散にも耐え、そうやって分散拡大していく生そのものを研ぎ澄まし、集中させることができる。

 180度ひっくり返してみれば、人は分散に耐えられないーからこそ、比較的小さな生を集中へと向かわせる。つまり、「永続の強制」「排他性」「罪の共有」「悲劇性」「定量化/定性化」。ここが、鍵になる部分のように思われる。