ほりうち氏のおもうことvol7

07年6月

本日のテーマ;パリで出会った男の子をいとおしいと感じるこの奇妙な感情について。

 アーヘンで大聖堂での聖遺物公開を待ちながらカフェでカプチーノ飲んでるときに、店の女の子がにっこり笑って、テーブルの上に花を置いてくれた。

 ふいに、「いつも心に花を」というフレーズが頭に浮かぶ。今、ドイツで自動車部品会社のマーケティングなんていう超ー現実的な仕事をしながら(注;シュールな、という意味ではなく、とっても現実的な、という意味です。まぁ、ある意味、シュールな仕事なんかもしれへんけど(笑))一方では精神生活のとても深いところを掘り下げている。今、ぼくは、心に花を持っている、と、自信を持って言える。例えそれが情熱の真っ赤なバラほど先鋭的、攻撃的じゃなくても。彼岸花かアザミくらいは持ってると思う。タンポポじゃないねー。そんなに健康的じゃないわ。どちらかというと病的な美しさ。コンスタンツの海岸沿いの公園咲くオレンジ色の菜の花も、ちょっと違う。きれいだけどね。

 何の話をしてたっけ?そうそう、「いつも心に花を」の話。つまり、ぼくはこれから、日本に帰ろうとしているのだけれど、あの閉鎖的雰囲気の塊のような国で(失礼ーでも、これが今のぼくの正直なイメージ)どこまで頑固に心に花を持ちつづけることができるだろうか、と、少し不安になってる。メキシコで絶望的なまでに自由な空気を吸って、日本に帰ってきたとたんに自由が取り払われて、絶望だけが残ったことを、まだ覚えてる。ぼくはもう7年前のぼくとは違うのだけれど。

 そこで、表題の、パリで出会った男の子の話が出てくる。彼は毎年、一年のテーマを決めてて、ぼくが出会った頃の彼のテーマは、「月に一回、通りすがりの人に花を贈る」というものだった。出かける時に花を一輪用意しておいて、歩きながら、あ、この人、と思った人に、それを贈る。ターゲットはあえて絞らず、老若男女、ランダムに均等になるように贈る。ナンパでもないし、そういう行動に何の意味があるの?と訊いたら、「受け取った人の反応が面白い」んだって。すんなりと、ありがとう、って受け取る人もいれば、拒否する人、変な生物を見るような目で見る人、千差万別で、それぞれの反応をブログに記録してるらしい(笑)。

 彼はオーストラリア人で、イギリスの大学で中世文学を専攻し、そこで旅行に来ていたフランス人のパートナーを見つけ、パリに引っ越してきた。彼はハークレインロマンスを書き、たまに道端でバイオリンを弾いて生活してる(バイオリンの腕も、絶品!)。深い知識と、ウィットと、柔らかい物腰と尖った精神を兼ね備えた人。

 もちろん、ぼくのこの感情は、彼との身体の距離が(たとえ一夜の思い出だとしても)この上なく近くなったことと密接に関係があると思う。ただ、身体的な関係は独立してそこにあるのではなく、あくまで前段のとても興味深い対話の延長上にあるのだと思う。その一連のプロセスを通して、対象が異性であること、同性であることは、根源的には大した違いは無いと考えるに至った。傾向はある。でも、逆にいえば、そこにあるのは傾向のみ。(=傾向という大枠では、個々のコミュニケーションを完全に捉えることはできない。国民性のステレオタイプが個々人を完全に捉えられないのと同じように。)

 彼はぼくに、ぼく自身に向き合うことを教えてくれた。ぼくにぼくの身体を思い出させてくれた(ぼくは今まで、自分の身体をいつも議論の脇にどけていたように思う)。だからぼくはこの新しい感情を素直に、ポジティブに受け止めると思う。もう一度彼に会って、話したいと思う。(と、この観照に至るまでに、1年弱かかってる。いつもながら、ある事件の本質を理解するのが非常に遅い。)