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ほりうち氏のおもうことvol8

07年7月26日

本日のテーマ;言語障壁について

 ぼくが日常的に考えてる事のひとつに、言語障壁がある。もちろん、考えるといっても、結論は出ない。例えば、ウェブサイトの言語障壁を、どうやって越えていこうか?とか。いちいち日本語で書いた文章を英語、スペイン語、ドイツ語に訳していくのが理想的なんだろうけど、とてもそんな時間は無い(最近、「ドイツ人と日本人の比較」のところで一部開始したけど、やっぱり英語ではなかなか筆が進まない・・・)。だからといって、自動翻訳機に任せるというのも気が引ける。Googleにとっても言語障壁というのは考察に値すべきテーマのひとつであるらしく、いかにそれを越えていくかを考えてるように見えるね。

 他にも、曲を作ってる時に、言語障壁を思う。ぼくの恋愛対象はほぼ全て日本人なので、ラブレターならぬ愛のうたは日本語で書く。すると、ドイツくんだりのカフェで歌っても、意味が通じない。これは言語障壁と同時に、ひとつの曲を「音」と捉えるか、「意味」と捉えるかの議論も加わる。逆にいえば、その曲を純粋に音の産物とすれば、まぁ少しは気が楽になる(フランスとかイタリアとかルーマニアの歌を、意味わからずに聴いて、それなりに楽しんでるからね)でもやはり、語の意味がメロディに増幅されてこの胸に届くというのは、そんな妥協を許さない体験。どうしてぼくはArbolが大好きなのか?それはやっぱり、ポップでキャッチーなメロディに載せて強烈に真実な言葉が飛び出してくるところなんやな。

Ya lo sabemos todos tenemos un poco de miedo.
ぼくらはもう、ぼくらみんながちょっとだけ怖がりだと知ってる。

このフレーズが、簡単なCとGだけに載って、リフレインが続いていく感じは、やっぱり意味を知ってるのと知らないのでは受け取り方が違う。

It's the cristal clear defining point

Sickoの名曲「What's on」も、この最初のフレーズ(の意味)の美しさが曲の価値を決めてる。クリスタルクリアーなディファイニングポイントだよ。それだけで一冊本が書けそうぢゃないか。

(どうでもいいけど、ふっとSickoをGoogleで検索したら、マイケルムーアの映画のページばっかり出てきた。1997年、ぼくの周り(の数人)は物凄い聴いてたんやけどなぁ・・・)

 おんなじ日本語を喋ってても、そう。ネイティブだからって完璧に通じるとは限らないというのは周知の事実だけど、特に恋愛のコミュニケーションにおいて、言語障壁ーというより、言葉の温度の問題なんだろうけどーは恋人たちの間に高く高く立ちはだかる。ギリシャ神話で、二人を隔てる壁の隙間からなんとか愛をささやき合う恋人たちのように。(誰と誰だったっけ?)そして、壁の隙間をするりと擦り抜け相手に届くのはいつも詩的な言葉だと思う。語の文法的な意味を超えて、オーバーフローぎりぎりまでシニフィエを膨らませたシニフィアン。彼女が言う「湖」はただの「湖」ではない。それはボーデン湖、それは琵琶湖、チャパラ湖、あるいは近所の溜池かもしれない。ふたりでそこに行った、話した、その記憶がこころの痕跡をなぞり、感情の残骸を呼び醒ます。言語障壁が薄れていく。

そんな言葉のやりとりの中で、最後はいつも、恋人たちは口を噤む。もうこれ以上詰め込むシニフィエも、発し得るシニフィアンも無く、ただ電話口で黙り込んでしまう。

恋人達は口をつぐむ。

言語障壁を越えていくコミュニケーションは確かにある。少なくとも、一回的な出会いの瞬間として。

・・・・と、ここまで書いておいて放っておいたので、一体何を結論として言いたかったのかわからんようになってしまった・・・笑。まぁいいか。とにかく、結論は、多分、言語障壁なんて気にすんなってことですよ。ぼくは瞬間的な邂逅についてよく喋るけど、持続的な関係性というのは恐らく線状なものではなく(一次方程式や、二次方程式や、三角関数ではなく)、点の集合(つまり、分布図)なんだろうと思うよ(もちろん、直線に乗っかってこない逸脱や失敗もあるという意味で)。