ドイツレポート

「ドイツについて書く」と一言で言ってもいろいろなトピックがあるが、今回は私が気になったことにテーマを絞り、そこに言語学的考察を加えていきたい。

 まず、私が興味を抱いた出来事をいくつか挙げてみる。
1、喫茶店でコーヒーを飲んでいると、店員が私の彼女が持っていたバッグについて話し掛けてきた。
2、旅行の途中、ドライブインで彼女にマッサージをしていると、そこで働いていた女性が「いいわねマッサージ」と声を掛けてきた。
3、彼女が服を試着して鏡の前に立っていると、近くに居た女性が「とてもよく似合ってるわよ」と声を掛けてきた。

 これらの光景は、ドイツにおいては普通であるが、日本においてはまずありえないと言っていいと思う。さて、この相違を「文化の違い」とか「ドイツ人は愛想がいい」とか言ってしまえばそれまでであるが、もう少し踏み込んで、「言語の違い」という観点から眺めてみたい。

 日本語がドイツ語と根本的に異なる点のひとつに、主語の多様性がある。ドイツ語ではどんな場合でも<わたし>は「ich」であるが、日本語では「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」と様々な言い方がある。また授業中に教師が自分を指して「先生」と言うこともあるし、父親が自分の息子との会話の中で自分を「お父さん」と呼ぶのも普通である。そして日本人は普通それら多様な単語を状況に応じて使い分けている。

 それは、日本人は自らの「Subjekt(主観/主語)」が相対的であるということを言語的に承知しているということを示している。ある男性は授業の中では「先生」であり、家庭内では「お父さん」であり、友達と会えば「ぼく」になる(彼の“役割”が変化するという意味ではなく、彼の“主語”が変化するということが言いたい)。言い換えれば、彼は自分の“所在”の決定を相対的な人間関係の中で、それぞれの他者に委ねているのだ。それは複雑な敬語のシステムにも現れている。この観点から、関係性の中で器用に自分の所在を決定し続ける日本人という像が浮かび上がる。

 一方ドイツ語では(もちろん状況に応じて語の強度は変化するであろうが)一人称単数主格は常にichである。他に<わたし>を指し示す単語は無いし、ましてやある父親が息子に対するときに自分を指す「お父さん」を直訳するわけにはいかない。<わたし>が常にひとつの単語で片付けられるということ、それはつまり自分の“所在”の決定を他者に依存していないということを意味するのではないだろうか。少なくとも言語的に、ドイツ語における<わたし>の所在はスタティックであると言える。

 こういった言語的な相違から上に挙げた出来事を考え直してみると、次のように結論づけることができるかもしれない。すなわち、あるレストランで、日本人の店員が客に私的に話し掛けにくい(また、 客の方もそんな風に話し掛けられることに慣れていない)のは、言語的に「わたし」と「あなた」の関係よりも「店員」と「客」の関係が先に立ってしまうからであり、一方ドイツでは常に「わたし」と「あなた」である為、それが比較的容易なのである。また、3.に挙げたように関係性が「店員」対「客」ではなく「赤の他人」対「赤の他人」であるとき、それは日本人にとってひとつの“戦慄の瞬間”である。なぜなら、自らの所在の決定を他者に依存しているにもかかわらず、他者は見知らぬ者であるため、彼らはお互いに自分の所在を決定することができないからである。しかしドイツ人にとっては例1,2と同じように、そこには「わたし」対「あなた」の関係があるのみである。

 そんなことを感じました。