1月。

1月5日。
 こう気温が高いと、新年迎えても感じがでえへんな。あけましておめでとうさんです。皆様如何お過ごしでしょうか。ほりうちさんです。

 9日出発なので、荷物整理を相変わらずしつつ、リカルドと詩の勉強。

 そして相変わらず彼女ネタです。申し訳ない。今日、コニーとめしくいに行った。彼女がジュースを倒して、中身がテーブルにこぼれた。ボーイさんが来てテーブルを拭いて、一段落したところで、彼女が「もう恥ずかしいわあ」と言うので、ぼくも冗談めかして「ぼくも恥ずかしいわ」と言うと、これが思わぬ展開に。彼女が怒り出した。「何でアタシのやったことでアンタが恥ずかしいと思うの?何の関係も無いやん」衝突したことはかなんかったけど、これはかなりいい会話だと思ったので、少し考えてみようと思う。
 「恥ずかしい」という言葉、それが今ここで論点になった訳やけども。彼女に言わせれば、ドイツゴでは「他人の行為」を「恥ずかしい」と思う、という表現はとても強く、侮辱的な意味を含むという。英語ではそうでもない(I shame)。スペインゴは?Me da verguenzaつまり「何か」「誰か」が「自分に恥ずかしいと思わせる」受動態としてよく使われる(avergonzarという動詞があるが、これも単体では「恥ずかしくさせる」というイミやし、あんまり使われない)
 ニホンゴではどうか?例えば電車に乗ってて、向かいの男の子が余りに高校生的ガキンチョな振る舞いをしてるのを観たら、そのときに浮かぶ感情は「恥ずかしい」とは呼べないだろうか?ぼくは他にいい言葉を知らない。この「感情」を言葉で説明すれば、なんとなく赤面するような、背中の真ん中がちりちりするような、ちょっと胸の中がもやもやっとするような、そんな感じ。しかし言葉にすれば「恥ずかしい」。

 今日の彼女との会話で、ニホンゴの「恥ずかしい」はドイツゴではふたつの全く違うものに分けられてしまうものをひとつにまとめている、いやもっと言えば、ごっちゃにしているのではないのだろうか、と思った。そのふたつのもの、というのが、「自己の過失による”恥ずかしさ”」と「他者の過失による”恥ずかしさ”」。結論を言えば、日本では「言語的に」主客の区別が曖昧だから、自分が滑って転んだときはもちろん、ドラマで反町Tがクサイことを言った時にぞぞぞっとするのも「恥ずかし。」になる(「さぶい」という表現も使われる。この場合、これらは同義語である)。最も、後者の意味では、少しばかりの嘲りが含まれていることもある。一方、ドイツでは「個」の感覚がはっきりしているから(自己を他者と同様に尊重するという意味で)目の前で誰かが滑って転んでも、その失笑は「恥ずかしい」にはならない。その感情は他者に対するには余りに侮辱的でありすぎる。

 「個人」と「世間」の概念のズレがここにはっきり出ていると思いますが。

 まあというわけで。ほりうち氏inメキシコはこれでおしまい。ぼくはそろそろ就職活動せなあかんしね。あんまり書いてるヒマも無いやろけど、ぼちぼち書いていけるだけ書いていこうと思っています。ばいばい。

 ほりうちしょうご