07年2月

現実と非現実について書いた手紙。


 ルーマニア行く前に、手紙書こうと思って、書き始めようとしたんやけど、ぼくその前に準備しなきゃならんわ。荷物なんにも用意してない・・・ちょっと待ってて。

 さて、準備はまぁぼちぼち。計画はある程度立てたし、荷物は・・あとは洗濯物が乾いたら放り込むだけ・・・。最初の2-3日はブカレストをうろうろして、その後ブラショフに行って、最終目的地はそこから1時間くらいのとこ。で弾き語りコンサート(持ち時間15分)やって帰ってくるの。あー楽しみ。こんな形で人前で歌うの、はじめてやわ・・・ていうか何が悲しくてルーマニアくんだりで弾き語りやるのか・・(笑)

 そうそう、ルーマニア行く前に手紙を書こうと思ったんだった。本題に戻ろう。  あなたのメールや、電話での声から、すごい迷いが感じ取れるのは、気のせい?じゃないと思うのだけれど。ぼくに迷いが無いのは、当然やな、だってぼくは現実に絡め取られてないから。その意味で、あなたが、ぼくが「現実の彼女」をみつけてfairな立場になることを望むのは、わかる気がする。

 でもね、多分ぼくは、あなたと出会って、完璧かつCriticalな2週間を共有することで、現実的な彼女なんてものからさらに遠くに離れてしまった気がするよ。ずっと、地平線の端っこで、誰がそこに居るのかを探してて、あなたがそこに来た。ぼくは、このようなぼくでも、このようにして生きていられるのだという事を悟った気がする。

 そう、「かくてもあられけるよ。」こんな風にしても、ぼく(もしくは、ぼくら)は"在る"ことができる。ぼくが、あなたが、ただ無邪気に存在することができるという事に対する無限の喜び。それはそれ自体が祝福であり、救いであると思う。そしてぼくはぼくの全て、あなたの全てを祝福する。(現実に・・?非現実から・・・?)救い出される望みは無いが、救い出される必要も無い。ぼくらはぼくら自身を非現実に閉じ込めるという形で救い上げるから。

 完全な、閉じられた円として、凍結する・・・それが良いことなのか、悪いことなのか、今のぼくにはわからないけれど。

 そうそう、「残酷さ」について、書きたかったんやった。ぼくがあなたを描写しようとするときに、どうして「残酷」という言葉が浮かんだのだろうか?という事。ひとつは、子供がもつ「想像=創造」の力強さが(大人が言う"現実"から見れば)残酷なものを伴うという点。もうひとつは、その感覚が、ぼくにとっては、ぼくの大好きなニーチェの哲学とうまく結びついているという点。

この議論を進める前に、ぼくが使う言葉の定義をしておこう(あなたの言葉の感触と違う場合があるから)。

「現実」 − 外側(大人の目)から見て、そうあるべき事。社会的なもの。構造的なもの。理性的なもの。
「非現実」 ― 外側(大人の目)から見て、在り得ない事。反社会的なもの。脱構築的なもの。カオス的なもの。
「リアル」 − 自分自身にとって、そうである/そうあるべき事。そう在りたいと願う事。
「現実認識」 ― 自分自身にとって、何が「リアル」であるのか、という認識。人によってそれは「現実」と重なるだろうし、「非現実」とも重なるだろう。

 子供たちには、ぼくらが逃れられない現実という感覚が薄くて、しかも生命力に溢れている。だから、子供たちにとっては、「想像(imagination)」と「創造(creation)」とが限りなく近い関係にある。想像するだけで、野原は戦場になり、近所のこうるさいおっさんはモンスターになる。あなたとぼくは、まだ見ぬ未来の夫婦になることもできる。この場合、子供たちが「想像=創造」する世界は、「現実」ではない。しかし、子供たち自身にとっては、戦場やモンスターやあなたとの夫婦生活それ自体が「リアル」だ。

 大人になる、という事は、自己の現実認識を「非現実」から「現実」にシフトしていく過程なのだと思う。人はそうせざるを得ない、なぜなら、人は生まれた瞬間から社会的な存在になることを運命付けられているからだ(サルトルが「人は自由の牢獄に入れられている」と言ったとき、彼のアタマの片隅にはそんな考えがあったのだと思う)。そうして、ぼくもあなたも大人になった。いろんな形で矯正されながら。

 だから大人は、自分が過去その地点に立っていたにもかかわらず、子供を理解できない(それは、『星の王子様』読めば瞭然だよね)。社会的である、ということは、理性的/構造的である、ということを意味する。構造を根底から覆してしまうような衝動や行動は排除しなければ生きていけないから。

 (この辺、現実/非現実とか、社会的/反社会的という二項対立の議論は少し単純に見える。それらふたつの間には物事が構築されかつ脱構築されるmelting spot―複雑適応系の地点があるはず。それについてはまた今度。)

 ぼくがニーチェの哲学に(例えその真髄の1000分の1に対してでも!)共感するのは、彼の優しい視線は常に子供の側に注がれているからだ。子供たちが持つ混沌とした、無尽蔵の生命力は、そうあるべき「現実」をやりすごし、あくまでも内的な「リアル」に向かおうとする。そしてそれは多くの場合「非現実」的なものを伴うのは上記した通り。別の言葉を使えば、子供たちにとっては、それが「現実」的であるかどうかには全く興味が無い。大切なのは、それが「リアル」であるかどうか、だ。

 ここで「残酷」という言葉が浮かんでくる。子供たちは「リアル」を追求する余り、時としてそれは、現実的な感覚から見れば残酷としか映らないことがある。しかし、繰り返し言うけど、子供たちにとっては、それが残酷であるかどうかは関係無い。だから彼らの「リアル」に残酷さという認識なんて存在しない。

 でも、"あなたは"―残酷さを知っている。その言葉が連れてくる血の匂いの禍々しさを知っている。だからこそぼくはあなたにこの言葉を選んだのだと思う。「リアル」に向かおうとする意志と、動かし難い「現実」を同時に併せ持つあなたの上にこそ、「残酷」という言葉は美しく響く。

 うーん・・・なんかしっくり来ないなぁ(自分でいろいろ書いといて!)・・・もっと経験的に言えば、幾つかの夜であなたがぼくにくれた言葉がほんとうにぼくにとっては鉄の杭のように胸に突き刺さって、それは「現実」からみれば「残酷」としか形容できないから、だろうな。でも、本当に誤解しないで欲しいのは、いつも言うように、ぼくはあなたを形容するこの「残酷」という言葉に、その言葉が文法的にもつようなネガティブなニュアンスは一切、込めない。あなたは「鉄の杭」をぼくに突き刺すけれど、あなたは常に「リアル」の方を向いていることをぼくは知ってる。だから、ぼくが感じる痛みは、ぼくを「現実」から「非現実」へと、つまりぼくが根源的に目指すべき「リアル」の方へと引き戻すための痛み。だからその痛みは同時に限りなく嬉しいものなんだ。

やっぱり、マゾなんかなぁ・・・(笑)

 なんか、ラブレターにしたかってんけど、ならんみたいやわ(笑)こんな手紙もらうの、嬉しいかなぁ?過去の友達/恋人の幾人かはかなり迷惑がってたようだけど。「何言いたいんかわからんわ!」て(笑)少し衒学的かもしれないけれど、ぼくは言葉の人ですから。(そしてあなたにとっての、言葉の恋人。)

とりあえず、はやく風邪治して下さいな。 じゃ、また。