5月19日;
 ニホンゴを教える学校での友達(なんかヘンな感じやけど、これくらいにしか表現でけへんわ)の、トーニョとマヌエルと共に、Tonalaというまちに行った。すごい、メキシコシティ以来の、活気と喧騒のある光景に楽しくなった・・・て、なんか普通のコト言ってるなあ・・・(笑)どうせなら、なんか変わったコトを言おうか。・・・めしくうとき、目の前に、ヤギの頭がドン!ドン!とふたつもあって(右の写真)ちょっと見にくいかな?なんてゆうか・・・しかしこの町には奇妙にしっくりきていて、あまり違和感がないのです。味は?さすがに、食べてはいませんが(笑)まま、そのうち食べてみましょう。
 少し小高い丘にも登ってみました。しかし今日はかなり暑い。暑い。暑い。丘の上は風が吹いて、いい感じ。トナラの町はお気に入りのひとつになりました。
 トーニョは、グアダラハラへ来て(いや、メキシコへ来て)初めて発見した、ぼくに似た感じの男の子です。オクタビオ・パスの詩が好き。自分で詩も書く。ギターもそこそこやる(といっても、未だ弾いてるのをみたことないけど)もうはやくも一ヶ月が経ち、パスさんの詩を読む!といいつつも一向に理解できなくて、かなり焦っていたのですが、彼とはそういった、「詩的な」コトバをつかって会話が出来そうです。うれしいっす。
 男三人で歩いてたら、やっぱり下ネタに行き着いてしまいます(笑)この前も喋ってたんだけど、スペインでとにかくcogerという動詞(タクシーに乗るときとか)をよく使ってたので、メキシコでも使いそうになるのですが、ダメです、ということです。こちらでは殆ど性的な意味にしか捉えられません。最近知り合ったヨシコさんは、最初の頃バスに乗るときにcogerを連発して、かなり恥ずかしい目に遭ったと言ってました(もちろん大笑い)。
 メールを(ぼくにしては)たくさん受け取ってます。ありがとございます。ああ、そして、アルファベットで名前表記すると、僕自身が「だれのことを書いたのか?」わからんようになってしまうので、もうやめますわ。ばんざい。
5月20日;『無理ですか?
 
現在、夜の1時、が、一向に眠くなる気配がない・・・いつも昼ごはんのあと眠くなって、一眠りしてしまうので、夜はどうしても遅くなってしまう(ていっても、結構寝てるかな?うーん、7〜8時間。)さて。今日は、なにをやったか・・・すぎもっつがAutonomaで受けている詩の授業で最近オクタビオ・パスをやっているので、ぼくもここはひとつはりきってレポートを書いてみようと思ったのだが、きついなあ。あほみたいにわからん単語がある。ということで、一休みがてら、書いてます。・・・今日、ギタリストのルイスに電話して、ギター講習は6月からということになった。ぼちぼち。彼のライブを思い出して、少しぽろりと弾いてみる。うたをつくりはじめた高校の頃のことを思い出すと、なにか不思議なきもちになる。ああ、あんときゃ、若かったなぁ・・・みたいな(笑)さぶいうたを、たくさんつくった。今だに残ってるのは・・・「明日、また。」くらいかな?あ、あと「9月」もそう。暇だったのか、POPセンスにあふれてたのか(笑)一日に一曲づつくらいつくってた。いつしか、自分のうたを、さぶいと感じないようになった。これはほんとに慣れだと思う。今日、ふと思ったのは、自分のうたのさぶいところを自分でわからないと、これは頭イタイなあ・・・ということだ。ぼくは、山崎まさよしのうたは、好き。でも、ゆずは、だめ。ハイロウズは、いい。でも、ピストルズは、だめ。それらの間に、なにか具体的な違いがあるかというと、そうでもない。ただ「いい」か「悪い」か、その判断は主観的直感的なものでしかない。もし、ぼくのうたが、ぼくの「いい」と思ううたから外れてしまっていたら・・・・んなこと考えてもしょうがないよな。もしそれに気付いたら、こんな金にならんことはすっぱりとやめてるやろな。まだうたいたいとおもうから、うたう。とりあえずいまのところ、それでいいっすか・・?
 てゆうか、無理ですか?いまから、レポートしあげるの・・・・

5月22日;『とまちん』
リサが、トーマスの写真を送ってきた。最近のケータイはハイテクやからね、こんなこともできるんやなあ・・・素晴らしい。(おまえはこんな写真送りつけてる場合やないやろ!(笑))まゆみさんがこれをみて「日本は回転はやいなあ・・・・メキシコはいつまでたっても景色かわらへんけど」と言ってた。ほんとにそうやなあ・・・CDとかも、回転が・・・遅い。バスはとまってくれずにいってしまう。夜中の歌声。時間の流れが遅い!とはいわないが、明らかに日本とは違う概念で動いてる。それに流されて、ついつい勉強をさぼってしまいがちになる・・・「明日、また」って感じで。いかんいかん。思うに、「違うところにいるから」というだけで浮き足立ってしまうのは、それまで自分が属していた「現実」と余りにかけ離れているために、自分が「幻想」の中に住んでいるかのように錯覚してしまうところにある。メキシコにいれば、しょうもない置物ひとつから友達に至るまで、なにかと運命的なものを感じてしまうけれど、実際は日本に居てる時も、全く同じ偶然に囲まれて生きていた訳で・・・でもそれを考えすぎると、とたんにここにいてることがしょうもなくなってくる(笑)自分の精神状態をうまく活用して、おもしろいことができるようにしよう・・・今、考えられるのは、それくらいかな?(笑)

5月25日;『深淵を覗き込む』
 ヒトは皆、一度は「深淵」を覗き込む。その深みは、あらゆるところにあって、「生」と「死」の観念から発し、またそこに帰結する。ヒトは皆、一度そこを覗き込み、興味を無くすか、何も見なかったふりをするか、恐怖を感じるか、またそこを飛び越えていくか、そんなあらゆる態度をとる。「深淵」のなかには、生でも死でもない、善でも悪でもない、聖でも邪でもない、あらゆる矛盾と、混沌が、のたうっている。ヒトは「深淵」を覗き込む、そしてそれを「深淵」であると認識したものは、そこから何を見出すのだろうか?・・・頭のきれる人間が、いったいどれだけの間、この深淵を見つめ続け、そしてどれだけの答えを出し続けた・・・?ぼくは「深淵」を覗き込んだ。ひとりの人間にとってあまりにも大きなそれにぼくは圧倒され、いつかそれを誤魔化した。しかし、いくら目を逸らし、平常を装っても、「深淵」はいつもそこにあった。それは、肉体に翼を生やし、魂に重力を与えるもの。それは、ちっぽけな人間の喜怒哀楽を哄笑によって包み、呑み込むもの。余りにも近くにあるのに、文明には感知されないもの。ぼくは、混沌に接し、その毒気に苦しんだ。自分を守るためにか、その苦しみを卑下するようになった。自分の苦しんでいる様を、遠くでみつめ嘲笑った。ぼくは厭世的な思考を続けた・・・それが自己と世界の軋轢から自分を守る手段だった。
 きみも多分「深淵」を覗き込んだ者の一人だ、だからこそぼくらは惹かれあった。ぼくがきみに自分自身の投影を見出すのと、同じように、きみにも感じられるのだろう?そして、ぼくはもういちど「深淵」に臨まなければならない、そのとき、ぼくが再び自分に、世界に幻滅してしまわないように、きみがここで、ぼくに向き合ってくれることを願うんだ。

5月27日;『永遠の仔』
 今日の朝、しんさんから頂いた『永遠の仔』を読み終えた。なんというか・・・なんにも言えないというか・・・いや、言いますわ(笑)すごい、よかったよ。ぼくがもつ現実よりも現実的だった。ということはぼくの現実がいかに現実的でなかったか・・現実が余りにもやりきれない人間は、想像を理想的にすることによって生き延びる。現実が余りにも平凡で、劇的でないと感じる人間は逆に、自虐的な妄想に浸ることで陰湿な喜びを見出す・・・ぼくは、後者です。どちらにしろ、いずれ、一般的にこれがそうだといわれている「現実」と、自分のなかでつくりあげた「現実」のギャップにもがき苦しむようになった。それは、慣れるべきものなのか?ぼくの思考は、果たして妄想なのか?過去、ぼくは諦めかけた。自分が「特殊」なのであって、ぼくという個性は矯正されるべき代物だと。今は、違う。紆余曲折を経て、ぼくは一個の人格として多数に埋没することを拒んだ。
5月28日;『わかってるんやけど・・・』
 ぼくはその時々の精神状態によって、またその時々のぼくを支えている言葉によって、態度が変わる。申し訳ないと思うんやけど、時々、余りに自分と違う意見に出くわすと、とてつもなく毒舌を吐いてしまう。そのときのぼくを支える言葉はこうだ;「彼はぼくの友達やから、正直に言わないといけない・・・少々きついコトバであっても」。一理ありそうな理由、でも、正当化でもある。ぼくが放つコトバで誰かを傷つけるのなら、言わないほうがいいのかもしれない。なんにしろ、やり方はマズかった。ただ毒舌吐くだけ、というくらい、簡単なことはなく、ほんとうにぼくが彼を思うのなら、ぼくは攻撃してはならなかったはずだ。反省はするんやけど・・・時々、やってしまう。毒を吐く、そして、心の中の悪魔を可愛がる。・・・頭のいいひとは、ただ毒を吐くなんて、頭悪い人がやるような単純なことはしない。ともすれば醜悪になりそうな文章を、皮肉とユーモアで切り抜ける。あっくんへのメイルにも書いたんだけど、最近読んでて出くわした、まさに抱腹絶倒の一句;

 いまわれはすべての物買う人が慎重に、狡き眼を持てるを知る。しかも、このもっとも狡猾の人すら、己の妻は改めもせずに袋入りのまま買う。(『ツァラトゥストラかく語りき』竹山道雄訳、新潮文庫)

 この文章の前後には、フェミニストが読めばかなり怒りそうな記述が続いてる、でも、この一文はそれを掬い上げてると思う。「袋入りの嫁さん」を想像するだけで・・・(笑)道の両側に並んだ屋台、市、とある店の前で、白髪のおばあちゃんが中のみえない袋を手渡してくれるのです。ぼくは中身も確かめずそれを買い、食べる。2〜3口食べると、脂っこい、くどい、人工的なその味にうんざりしてくる。こっそり捨てようとすれば、人々はこぞってじろりとにらむ。彼らの手にもまた、食べかけの、一生かかっても食べ尽くせないだろう、「袋入りの」・・・が握られている・・・・
 とにかく、今日、改めてきみからのメイルを考え直し、言い過ぎたとおもいました。ちんねんさん、すいません。「ぼくの意見はそうじゃない」という熱意だけはわかってくださいな。

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