11月。

11月2日(金曜日)

 だいぶながいこと書いてなかったなあ・・・きょうテストが終わって、ぼくがとる予定の最後のクルソが終わり、来週から一ヶ月リカルドに個人授業していただきます。ということで、時間も出来たことやし、と。

 どないですか。元気にしてますか。ぼくは元気です。この一ヶ月はスペインゴでいろいろ書くことを心がけてましたのでまあ自分では上手くなったかどうかわからんけどちょっとはマシになったもんだと期待してます。

 やはり最近のぼくのアタマを支配してるのは彼女ですな。どーせ誰も読まへんから彼女自慢でもしとこう。こうやって並べてみるとどうにもぼくおっさんみたいやけどなぁ(ヅラぢゃないですよ(笑))彼女のほうが年上です。半年くらい。

 時々彼女と経済とか、思想とか、お互いの国についてとか喋る。いろんなことに理屈をこねまわすところは似ている。おかげで彼女に対してレポオトを書く羽目になった。これを書きおわったらはじめます。

 ドイツという国について。この国が置かれている状況は、第二次世界大戦で罪を負ったという意味で日本と本当によく似ている。この国では、国旗・国歌を称揚することが本当に難しい。例えばNationalstolzというコトバがある。「ナショナリズム」を意味する語なんやけど、これをヒトラーは好んで使ったために現在ネガティヴなイメージを持っている、だからドイツ人はこの言葉を使うことを怖がる。この国は戦後復興し、再び力を持つに至った、そしてヨーロッパの、とくにEUの主要国であるにもかかわらず、主導権を持たない。ヨーロッパにおける発言権は常にイギリス・フランスが握っている。

 でも例えばイタリアは、二次大戦での敗戦国としての立場は同じだが、国家として強力ではない、だから国家に対する忠誠心(アメリカのそれがこう呼ばれるのならば)はメキシコよりも強いにもかかわらず、何の物議も醸し出されない。

 アメリカがナショナリズムを発動してアフガンを爆撃しても世界の大半はこれに賛同する。ドイツや日本がナショナリズムを発揮すれば、どうなる?やっぱり西尾幹二さんが言うようにアメリカは第二次大戦に於いて「戦争」に「罪」の概念を持ち込んだんだと思う。さらに、そうすることによってアメリカは「国家」と「国民―国家の構成員としての個人」の境界線を曖昧にした。

 「国家」というものは概念でしかない、それは実体を持たない、存在するかどうかは別として。うーん例えば神の存在証明をするとして、デカルトさんは@自己存在の不完全性の自覚、A完全性のプロトタイプの希求、でも、それはどこから来る?Bそれが神だ! と言う(ものすごぉく薄っぺらく言って。でも、この存在証明には驚き)神は実体を持たない、見えないものは捉えにくい、だから物議をかもしだす。証明が必要になる。もしくは見えるように、体感できるように、聖餅とワインで代用する。しかし、存在以前に、概念は確かにある、とは言えないだろうか?エイゴにも、ニホンゴにも、スペインゴにも、ドイツゴにも、「神」を意味する単語はある。意味に多少のズレはあるだろうけど。調べちゃいないが世界中の全ての言語は「神」を有しているんじゃないだろうか?(エスペラント語には無いかな(笑))まとめ。神が”存在するかしないか”は個々人の信仰なり心情なり宗教勧誘なりに任せるとして、”神という概念”が「有る」ということは肯定できる。

 
さすれば、この「神」が持つ特徴は「国家」のそれと似ていないだろうか?ナショナリズム(オルテガはこれを『大衆の反逆』のなかで「お坊ちゃん主義」と言いますが)はなんだろか。神に意味をつけるのは坊さん、国家に意味をつけるのは政治家。うーん興味深い。今日はこの辺で。
  

11月17日(どようび)

 彼女がどこぞのビーチに出かけてしまったので寂しい週末。

 最近は、前も書いたように、リカルド先生とサクサク詩の勉強をしています。ううん。久しぶりの静かな週末。さっきタコスを食べに行った。50戦ターボ値上げしてた。ちょっとくやしいからキャベツを山盛りにした。ビタミン補給。

 今日は少し、ハイメ・サビ―ネスの詩について書こうと思います。

 Jaime Sabines(1926-1999)チアパス生まれ。詩人。同世代にはOctavio Paz, Juan Rulfo, Carlos Fuentesナドが居る。今は「オクタビオパスとハイメサビ―ネスの愛の詩の比較」と題して勉強しています。パスの詩は難しい単語をたくさん含んでるのに対して、サビ―ネスの詩は日常的に使用される語が使われている。平たく言えば、読みやすい(理解しやすい、という意味ではなく)。パスの詩はまだたくさん読んでいないのでなんともいえないのですが、彼のエロティシズム論『二重の炎』と比較する限り、サビ―ネスの詩に多くの共通点があります。ということで、彼らの詩を比較してみようと思い立ったわけでございます。

と紹介だけして疲れたのでやめる。おやすみ。

11月18日(にちようび)

 彼女は明日の朝まで帰らず、寂しい休日。

 今日はカフェをうろうろしながら勉強をちょっとだけやった。

 さっきドイツ人の同居人フェリックスと「街の落書き」について喋った。おもろかった。彼の言い分はこうだ。

 『殺風景な灰色の壁にいろんな色で絵を描く、それは「いいこと」やないの。それは大都会の中で匿名性に落ち込んでいく若者に残された表現手段として、たとえサブカルチャーだとしても、大切だと思う。』

 ぼくの言い分はこうだ。

 『無断でヒトん家の壁に落書きすることは違法です。それは明らかです。でも「いい」か「わるい」かはぼくにとってはどうでもいい。若者というのは若いというだけで天才で、大きな力を持っている。それを発揮すればいい。でも、「自己表現」という大義名分を使いたいなら、自分の描いた落書きの下に自分の名前と住所、電話番号くらい書いとけ。たくさんの人間の中で生きるということは必然的に大多数の中にうずもれていくということを意味する、そしてそこで敢えて法(法律も、暗黙の諒解も含め)を犯してまで自己を主張するというのなら、匿名性に逃げ込むのは鼻くそやな。ケーサツが怖いなら山にこもって洞窟壁画でも描いてなさい(と、そこまでは言ってないけど)。』

 きみの言い分は?

 ハイメサビーネスが詩の中で「きみが居ないということはこんなにも簡単なことなのか・・・!」と詠っていた。今日はこのフレーズがアタマを支配していた。ぼくは目が醒めた、歯を磨いた、カフェに行ってコーヒーを飲んだ、タコスを食べた、そのどこにもきみは居ない。きみの記憶、きみとの記憶はやがてぼくの無意識までをも支配するようになるだろう、そしてぼくは相変わらず朝起きて、歯を磨いて学校なり会社なりに行くだろう。きみの不在は、他の誰の不在よりも簡単なことなんだ。はぁ・・・て、最近恋する少年やね。

11月19日(げつようび)

 きみの不在は、今日の午後に終わりを告げた。この土日で、ぼくはきみについて(あるいはきみとともに)たくさんのことを学んだ。きみの不在、それがとても容易いということ、きみとぼくが別々の宇宙に属するということに対する歯痒さ、時間が経てば経つほど、きみに関する情報がぼくの中に膨れ上がればそれだけきみという限りなく偶然な一個の必然はぼくなんかにはとても捉えきれないもののように感じられるようになるということ。きみへの感情、それは彼方へ向かう、自己自身へ向かう。

 ぼくの真の宇宙はきみの中に隠されているというウワサもある。

11月27日(かようび)

  24日からはじまったFIL(国際的本の祭典)で今年はブラジルがゲスト。月曜日から、ネリダ・ピニョンという作家のオハナシ会に行っています。大して作品を読んだわけでもないんやけど。てゆうか昨日は場所を間違えて、会場に着いたときにはもう殆ど終わってた(涙)今日はバッチリ行く。
 朝の10時から12時まで講演会、そのあと2時からリカルドの授業。昨日はリカルドがものすごく興奮してておもしろかった。セニョーラピニョンのパパかママがガリシア出身らしく、ということで彼女は幼い頃ガリシアの民話や伝説をたくさん聴いて育った。ところでグアダラハラという町は昔「ヌエバ・ガリシア」と呼ばれてた・・・他にも色々共通点があるらしい。例えば、「登場人物が全てはじめから死んでいて、でも普通に生きているように生活する」という小説は、(彼の知っているところによると)世界にふたつしか無い、ひとつはフアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」、もうひとつはなんとかというヒトの本。前者はハリスコ(グアダラハラがある州)出身、後者はガリシア出身。元々ガリシアの人々のルーツはケルト人にあたるという。ラテン語ルーツのスペインゴは「明快・論理性」を特徴とするが、ケルト的なものは「幻想、ファンタジー」である(リカルド談)
 ドン・フアンの話もでた。ぼくは最近カミュの『シーシュポスの神話』を読み直していたところだったので、興味深く聴いた。ドン・フアンという「人格」は、ティルソ・デ・モリーナがオリジナルを描いて以来様々な作家達を虜にしてきた。いろいろなドンフアンが居るのか、ドンフアンは一人だけで作家がそれを「解釈」するのか、それはわからへんけど。・・・結末に於いて、ある者は地獄へ堕ちる、ある者は(バーナードショーの作品で)は、一度地獄へ行くがアクマにさえ嫌われて結局天国へ行く(ニーチェの言う「超人」として)(リカルド談)で、あるガリシア人作家の描くドンフアンは、「舞台を降りて人ごみの中へ還る」んです。これはすごく面白くない?リカルドの話を聴いてただけで面白いと感じましたが。

次のページ