12月。

12月1日。

 電話回線を切ることにしました。もうそろそろ帰る準備やしね。つきましては、ここの更新も今日が最後です。

 インタアネットをうろうろしてて、面白いホオムペエジをみつけた。http://www.aozora.gr.jp/へいってみてください。著作権の切れた作家の作品がタダでてにはいる。おいしい。これで(ある程度は)古本屋めぐりをしなくてもいい。特に、村山槐多の作品。『悪魔の舌』にはびっくりした。澁澤さんが言う「傍系ロマン派」の臭いがする。

 あとは、ここにのせてある「よいこの社会主義」の「よいこの恋愛論」読んでみてください。爆笑。まさによいこのための・・・。

この写真は本の博覧会に行ってきたときの写真。ちょっとsophisticated(笑)

12月10日。

 そろそろ帰り支度をしつつ(早い?)サクサク本を読んでいます。今トマス・モアの『ユートピア』読み終わった。正にユートピア。時代的にはバロックに位置する人やけど(でも彼はイギリス人やから、あっくんに言わせればイギリス・ルネサンス?)ぼくの感想としては、彼の「ユートピア」の概念は時代を飛び越えてロマン主義にまでいってるとおもう。イヤ完全にではないけど。ユートピア人の思う「自然」の概念は、正にロマン主義、でも信仰が大きな位置を占めてもいる。ううん。読み直したい。

あとがきが熱くてびっくり。

 オクタビオパスの初期作品を読んでる。リカルドの解説付きで読んでみて、ようやく考え出すことができた(まだ理解はしてません)愛というものについてよくよく考えてみたけれど・・・ざっくばらんにいこう。いま、ぼくは僕自身の写真(←)を眺めながら、この男がこのとき何を考えていたかを考えている。ぼくはいま、彼女がこの時カメラのファインダアからぼくを覗いた、その同じ視点に立っている。彼女がなにを見ていたのかを考えている。多分彼はさりげなく胃が痛いことを思い、ある本を探し続けた後の疲労感を感じている。彼女はといえば、これから行くベジタリアンなレストランの事を思い(結局そこは散々な店だったが)、野菜よりもむしろ肉を好むこの異国の青年を振り回してやしないかと少し不安に感じている。彼はそれを識っている、だから少しだけ、ほんの少しだけ努めて明るく振舞う。彼女もまた彼が少しだけ、ほんの少しだけ「演じている」ことを見抜き、少し微笑み、気付かない振りをしていようと心に決める。彼はそこまではわからない、そして彼女がこぼした笑みにほっと胃痛を軽く感じ、うまく演じ遂せたことにほくそえむ。そしてやがて彼等を満たす感情をお互いに伝えようと試みるが、それをうまく言い表すスペインゴの単語を知らないことに気付く。知っているのは陳腐な、使い古された表現ばかり。そこで彼等は二人して何かを演じることで、相手にその感情を伝えようとする。あるときは幼い子供になり、あるときはエセ知識人になり、あるときは関係性の持続に慣れた二人を。この遊戯のなかで彼等を最も幸福にさせるのは、彼が「演じている」と識っているのは彼女だけであり、彼女が「演じている」と識っているのは彼だけであるということだ。彼は今、「ぼくはこの役をうまく演じきってみせる」と意気込んでいる、彼女もまた同じ、しかし彼等は、この遊戯が”遊戯”ではないことに、またこの不安定な関係性こそが遊戯であることに気付いていない。

愛って何だ!?(真剣に。)

JUAN JOSE ARREOLA追悼。
リカルドの大学時代の先生。ほんの一週間前に死去。有名ではない、が凄い作家であることは間違い無い(らしい)。何より、”メキシコ人”。遊び人で、話好きで、女ったらしで・・・そして真摯。まだ短編をひとつしか読んだことのないいち日本人が今日、アナタの本を二冊買いました。ヒマなときに読もうと思います。合掌(中島らも風に)。

誰か自転車とアイワのラジカセ買ってくれ。

12月27日。
 旅行から帰ってきて、もう帰るまで二週間しかないので、勉強をしながら荷物の整理をしつつ、買い物をしつつ、している。少しイライラしてると思う。ここで過ごしてきた何ヶ月間がとてもゆっくりとしていたので、これから始まる生活には戸惑うだろう、でもぼくはそれを待ち望んでる。多分、はやく帰りたいんだと思う。懐かしいのはなにより本を読みながら過ごす近鉄電車の生活。ほんまに。

 こういう時期に誰でも考えるのは「ここに来て、アタシ何か変わったかしら?」ということだろう。ぼくもそれを考えてるんやろか。スペインゴに対してはなんにも思わない、だって3年いっぱい勉強して10ヶ月喋ってたら”使える”ようになるのは当然やろから(それどころか英語やドイツゴのひとつも喋れへんことをかなり恥ずかしく思う)。日焼けはした。そして肺を除く内臓器官が頑健になったとおもう。ギターが少し上手くなった。自分事に対して少しいぢきたなくなった(前から?)。

 理屈をこねることはあまりしなかったと思う(ぼくにしては、ね。去年はもっとやってたと思う)そしてうたを前にも増してつくらなくなった。ヨオロッパに眼を向け始めた。メキシコは今のとこもういい。以前、ぼくは「ラテンの血」というものに凄く興味を持っていた、でも今はそうでもない。少なくともメキシコで、それは「個人の血」ではなく「集団の血」であるということに気がついた。長いものにまかれてるところは、メキシコ人は日本人に似てるぞ。しかし同時に「個人的に熱い血を持つ者」が多いということ(日本には少ないとぼくが感じるのは、ただ出逢っていないから?)。なんにしろ、今興味があるのはドイツ。これには文句ないでしょうな。愛は国境を越えるんですからね。

 「ひと」というものを最近また考える。コニーとぼくの人間関係に対する考え方は似ている、が、違っている。馴れ合いが好きじゃないところは同じ。ぼくはだからそれらを自分から遠ざけて、イライラしないようにする、でもコニーはそこに、関係性の渦の中に自ら飛び込んでいく。ぼくはそんな彼女に時々イライラする、だってどう考えてもぼくのやり方は彼女にとっても理屈に合ってると思うから、でも同時にまた彼女に魅力を感じる、そういう生き方は利己主義のぼくには到底真似の出来ないものだから。彼女は「濡れると判っていながら」飛び込み、びしょぬれになる。濡れることが大嫌いなのにもかかわらず。なぜ彼女は敢えて「飛び込む」のか?それをぼくは識らない、識る必要はない。傍観者のぼくはそれを不条理だと思う、でも隠遁者のぼくと違って彼女の不条理は生きている。ぼくは彼女のようには生きられない、決して。だから彼女が岸に上がってひとときその身体を乾かす為の樹のようなものであればいいのにと思う。

 最近詩を、テクストとしてでなく、日常生活の中に導入して考えることを楽しんでる。例えばオアハカの海に行った。ハイメサビイネスはチアパス生まれやから、オアハカの海も似たようなもんやろな。そんなことを考えながら、彼が描いたアダムの視線で海を眺める。どうやったら海が女性の身体になるんやろ?漣、泡、凪。海のどこに「たくさんの眼」があるんやろ?朝日が波間に散らばる時、海は多くまばたきをする。ぼくは「父なる」海に向かうアダムの様に波にぶつかり、突き飛ばされ、引きずられ、疲れ果てて砂浜に戻る。・・・体験をもとに詩を考えるというよりも、記憶をテクストをもとに再生するという感じかな。なんにしろ、レポオト書くのに役立てばいいんやけど。

 「愛」について語りたいとおもう以上、それが日常生活からかけ離れたものであってはいけないと思う。人から離れたものであってはいけないと思う。だからぼくは彼らの愛の詩を解説書を通してではなく、メキシコ人を通して、コニーを通して、そして自分自身を通して考えていきたい。ぼくは21歳にしてはとても偏屈やけど、愛に関してはそんなにひねくれてはいないと思う、ほんまに。でも逆もまたアリやなあとも思う。愛の詩を通して「愛」を捉えようとする試み。愛をテクスト化。

 

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