9月。

さて。もう9月になりまして。てゆうか、もう11日。最近大して書くこともなく(というのはウソやけど)書いてなかったけど、今日は書かざるをえないです。

9月11日
 えらいことになりました。今日朝起きたら、ビルが燃えてた。
 
 日記やねんから、私的な内容でいこう。てゆうか、飛行機がたてつづけに墜落していたそのとき、うちのおかんと妹をのせた飛行機は太平洋上空をとんでるっちゅうねんな。

 AAに電話して、その飛行機はバンクーバーに着陸した、ということを確認した。しかしメキシコまでどう来るかは、未だ不明。

 しかし・・・ジンクスというものは、考えたくもないけど、考えてしまうものでして。うちのおかん、(去年やったかな?)ハワイかアメリカかどっかにいく飛行機のエンジンが火を噴いて、機内ケムリだらけになって、日本に引き返して、一泊して、翌朝その同じ飛行機で再出発したらしい。うちのおかん、日本を離れないほうがいいかもしれへんな。

 (これはものすごく私的な感情なのであしからず)

と、さっきおかんから電話あって、今日はバンクーバーに泊まりになるとのことです。やれやれ。

「旅客機も破壊兵器になりうるという点で、今回の事件は今までのと一線を画している」と、誰かがどこかのHPに書いていた。で、乗客がいるねんから、まさか撃ちおとす訳にもいかんしね。(理屈に走っていきそうな予感)日本の特攻隊に似てるようで違う。もっと簡単で、効果的な手段だとおもう。

以前、NHKスペシャルで『黒い未亡人』という名前のついた地雷について放映してた。この地雷は、火薬の量を調節してあって、ヒトの下半身とか脚とかをふっとばすけど、生命は助かるようになっている。

なんで?

ソ連軍の製作者のハナシによると、「殺してしまうより、戦闘不能の状態でしかし生きながらえているほうが、敵国は彼ら負傷者を擁護しなければならないという点で経済的なダメージを与えることができる」。ぼくがこの放送をみながら「恐ろしい」と感じたのは、これは「モラル」というもののぎりぎりの境界線だとおもうからだ。

この戦術(と呼べるかどうかわからんけど)を文字通り”支えている”のは、「敵国のモラル」・・・同国人を保護するという・・・に他ならない。この境界線を越えると、どうなるか?その国は、自国の経済的ダメージを避けるために、戦闘不能者を虐殺してかかるだろう。

これは大袈裟なハナシじゃない。現に第二次大戦時、ドイツはユダヤ人と同時に、精神障害者、身体障害者をもガス室に送った。

今日の朝の事件に戻ろう。テロリスト(タリバン?)は、旅客機をつかう、なぜならそれはバクダンより手軽で、安く、そして”敵”の本拠地までひとっとびでのり込める。さらに、(操作ミスの無い限り)確実に成功する。

この確実に成功するってゆう点が、さっきの『黒い未亡人』で言った、ぎりぎりの境界線にあたる。

なんで確実か?先に言ったように、「まさか撃ちおとす訳にもいかん」からだ。テロリストは”決して還ることのない”人質をもっているからだ。いくら対ミサイル設備の性能を上げても(今アメリカは日本にカネをださせたがってるんやろ?)こうこられると、どうしようもない。

しかし、あるとき誰かが考えるとする;
「どうせテロリストは死ぬ気で居るし、乗客はどっちみち助からない、それなら
指をくわえて見ているよりも、撃ち落したほうがわが国のダメージが少なくていいんじゃないか・・・?」

この命題に答えうる材料が、現在、十分にある、と言えるか?前もどっかで書いて、さんけーも言ってたけど、「なんでヒトを殺したらあかんの?」に答えられないということが問題なんだとおもう。


ヒトはみんな人間機械論者になってしまったんかな。臓器提供とか、ぼくはかなり恐ろしいとおもうねん。極端に言えば、

『アタシはもう生きないから、アタシが大事に使ってきた部品、使っていいわよ。』

てゆうことやろ?どうも、みんな、自分を機械であると信じ込んでるような気がする。
例えばここに「博愛精神」というものを持ち込んでも、同じコトだとおもう。
例えば三島由紀夫がドナーカード持ってたら、彼の行為そのものが矛盾したものになるんじゃないだろうか。「切腹」というのは、「腹黒くない」ことを証明する手段、つまり、内臓に、身体に精神が宿っているという思想がその行為を裏付けている。身体は「ぼくのもの」ではなく、「ぼく」そのものなんだとおもう。

百歩譲って、「臓器提供」が、人間機械論者のポシティヴな形、ということにしよう。
彼のネガティヴな形は、タリバンであり、『黒い未亡人』である。

と言いはしても、ドナーカードを否定はしませんよ。毛嫌いもしません。ただ、ぼくは、絶っ対にもたへんけどね(いまのところ)


申し訳ない。今日はざっくり理屈にはしってしもた。

9月20日(多分)
昨日、コーヒーを飲み過ぎて、ハラの調子がおかしい。常に吐きそう。多分今日のぼくはこんな顔をしてるんやろか。

土曜日におかんと妹がここに着いて、火曜日の夕方にもう出発した。やれやれ。女性の買い物に付き合うのがこんなに疲れるものだとは思ってもいませんでした。

ふと気付くと、もう残り4ヶ月ぐらい。ぼくスペインゴうまくなったんやろか・・・疑問。確実に、ニホンゴは下手くそになったと思う。

とにかく、かえるまでにはドイツ語少しはできるようになってかえりますからね。


この前の真面目なテーマを少々脱線して、今日はうさんくさ恋愛について書きたい。

「恋愛感情は宗教的思考か?」というところを最近再び考えます。(ヘミングウェイの小説のどっかに出てきた言葉)以前、オクタビオパスのエッセイにはまって、ぼくは「NO!」と言い切った。でも、最近そうも言い切れなくなってきた。

恋愛感情が信仰であってもいい、と思う。少なくとも、そう考えてしまったほうがなにかとやり易い、というのはある。

(今、宗教と言ってるのは特にキリスト教を想定してます。)

「信仰心」というのは(聖書も読んでる途中、しかもまだ創世記の始めのぼくが傲慢にも言い切ってみれば)「神に対するノスタルジー」であるように思う。

(ややこしいので、「愛」という言葉は極力使わないことにします。)

ギリシャ人は、神に対するものをアガペー、人に対するものをエロス、知に対するものをフィロスとした。でもひとくちにギリシャ人てゆってもいろんな人がいるからなあ。これは誰の考えなんやろか?プラトンはアガペーとエロスをあまり区別してないようにも思う。それが区別してない、のか、統合した、のかはわからんけど。プラトン的に言えば、最初に肉体的「美」があって、そこから段階を追ってイデアの観照に至る、という感じでしょうか。

高村光太郎さんの詩は、こういう点から見ていくとおもしろい。智恵子さんが亡くなる前の詩は、肉体的情熱と精神的敬虔さが奇妙な融合を果たしていると感じる。みせかけやごまかしのない人間的「愛」を描いている。しかし彼女が亡くなった後の彼は、智恵子さんの面影を、梅酒やら、なんかの植木やら、そういったものに求める。そして遂には、智恵子さんは万物に満ちている、と描くに至る。

彼の感情は、「智恵子に対するノスタルジー」であると思う。つまり、宗教的思考。

9月27日。

天気が悪いっす。

恋愛感情が宗教的な思考だとするなら、「罪」と「罰」の概念も生じるだろう。恋愛関係にまつわる様々な罪は「暗黙の諒解」からではなく、「宗教的思考」から発生しているのかもしれない。僧侶が身の純潔を保とうとするかの如くに振舞うことは時に心地よい。ヘミングウェイの作品のひとつのなかで、登場人物が「あなたはわたしの宗教」と言う。ぼくがよく使う「恋愛感情は宗教的思考」という言葉も、この作品から取っている(タイトルなんやったっけ?『武器よさらば』かな?)この考え方、感じ方は、多分にロマン主義的であるように思う。そして、オクタビオパスのそれは多分、これとは違うところにある。どっちがほんとうか?それは人それぞれでいい、でも、ぼくは”個人的に”明らかにしたい。

最近、ぼくは(全く現実生活での体験から)宗教的思考を否定しないようになった。

 

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