10月

10月4日。

 旅行にいくと言っておきながら、授業をとってぬくぬくと勉強してます。リカルドとも話して、ぶんぶんがくの勉強は来月からということになりました。

さて。だれが読んでるんかわからんけど(まあ少なくともうちのおかんは読んでるやろ)サクサク書いていきます。ここ最近パソコンが機嫌悪くて最悪やったけど今は大丈夫。ドイツゴはアホみたいに難しくて大変。スペインゴも素人に毛の生えた程度で。

明日から、ナジャリに行ってきます、だからちょっとはおもろい写真も撮れるでしょうなあ。

10月9日。

 旅行に行かないと言っておきながら、先週末のNayaritに引き続き、今週末、Uruapanに行ってきます。で、その分忙しいので、Nayarit紀行はもうちょっと後になりそう。まあ大したことも書けへんけど、乞うご期待。

タバコかってこなあかんのでこの辺でしつれい。


10月17日(水曜日) 

 午後からコニーが通う経済学部に遊びに来てます。公園に設置されている机に電話線のコネクタとコンセントがついてて、インターネットができる。なんとすばらしい環境。で、今日パソコンもってきたんやけどコネクタの形式が違うのか、とにかくインターネットにつなげない(涙)まあいいか。

 さて。二週間以内に提出しなきゃならんレポートの為に、ちょっと書きます。まだはっきりとテーマ考えてないけど、「メキシコ人のステレオタイプ」について書こうと思う。以前日記に、ステレヲタイプで異文化を捉えることは面白くない、ということを書いたけど、例えばこうやってレポートにするときに、ステレヲタイプでなければ捉えきれない、というのは正しいと思う。だから今回はそれをできるだけ掘り下げて書いてみたい、と。日本人のステレヲタイプと比較しながらね。

(ここからはメモを書きます)

 日本人が西洋的個人の概念と日本的世間の伝統のダブルスタンダードの中に生きているということは前に書いたと思う。「国民性」の深いところをこのレヴェルでみていくとどうなるか。オクタビオパス『孤独の迷宮』いいかげん読まなあかんなあ。もとい。メキシコ人というものは、根本的に「Hijos de la chingada」である、というのを誰かが言っていたような・・・それは当たってる。そして、それは北の大国・アメリカと根本的に異なるところだ。

 メキシコ人が、ヨーロッパ的伝統(というかスペイン的伝統)と先住民的伝統の中で揺れ動いている図は想像できる。ヨーロッパへの憧憬と独自文化の蔑視(という表現はちょいきついかな)という点は日本に似ているんじゃないだろか。

 相違点があれば、類似点もある。この辺をはっきりさせていけば、なにか興味深いものも見えてくるんじゃないだろか。

 「メキシコ人は日本人よりも陽気」というのは一般的な見方だろう。ぼくはこれを「『現実』というものに対する意識の相違」にあるとおもう。例えば、日本人が決定的にメキシコ人よりもクライかといえばそうでもない。岸和田には「だんじり」があるし、諏訪大社には「御柱祭」がある。パンクのライブをやれば、メキシコ人に負けないくらい盛り上がる。しかし日本に於いて、これらの「情動の解放」はあくまで「限定された場所」でしか発揮されない。一方メキシコでは、その「情動の解放」が日常生活の中でもみられる。それは、日本では「現実」という言葉が「堪えるべきもの」「苦しいもの」というイメージを連れてくるのに対し、メキシコでは日々の生活そのものが「現実」であるからだ(あくまで仮説)


 多分、日本人とメキシコ人の間では「現実」・・realidadという言葉が持つ意味合いに相違点が発見できると思う。あくまで仮説。

 「言葉」の厳密な意味についてのインタビューをして、それをまとめ、自分なりの見解を加えるのは面白いと思う。

 

10月20日(どようび)

  ―ところで、エロティシズムは、彼方へ行くことなのだから、探求である。何を、だれを求めてなのか・・?他者を、我々自身を、である。他者は我々の似姿、他者は我々の欲望によってつくりだされた幻影である。我々の似姿は他者であり、その他者は、つねに、そして、永久に他者であることで我々を否定する。それは、彼方にある。永久に他人である他者を完全に手に入れることは決してできない。他者の本質的な隔たりの前で、二つの可能性が開かれる。私自身であるその他者を破壊(サディズムとマゾヒズム)するか、それとも、さらに彼方に行くか。その彼方には他者の自由と、私によるその自由の認知がある。エロティシズムのもう片方の極は、サド・マゾ的な破戒とは反対のものである。他者を他者として、受容すること。エロティシズムのもう一方の極の名は愛である。(『エロスの彼方の世界―サド侯爵』)

 最近、オクタビオパスの言葉を読み直す。以前は「エロティシズムは、彼方へと向かうもの」「愛は、他者そのものを見つめるもの」という捉え方をしていたけど、今改めてこの一文を読み返すと、そうとも言い切れないということがわかる。

 エロティシズムの一方の極がサディズムとマゾヒズムであり、もう一方の極、さらに彼方へと向かう極、他者の自由と、自己によるその自由の認知があるような場所、「他者を他者として捉える」ところが「愛」・・・・・この「他者を他者として捉える」という言葉をもういちど考え直さないといけない。

 「他者は我々の欲望によってつくりだされた幻影である」これはわかる。ぼくは今もとおい昔に実体を無くした幻影を追いかける。今、新しい幻影を発見し、というよりも過去の偶像を更新し、そしてそれは同時に時限爆弾と化す。ぼくは、この新しい偶像をいつか失ってしまうことを知っている。自己を漸進させるこの関係性が今は恐ろしくてたまらない。まるで原始人がフグの刺身を食べるようにね。もし彼女がぼくを拒絶するとすれば、それは必然だ、しかし彼女の幻影はぼくの頭に残り続けるだろう。

 服従、その反撥としての冒涜、宗教的感情、愛がその彼方にあるというのなら、ぼくは、ぼくらは、そこへ辿り着けるのだろうか。

 ちょっとエセ哲学者がきついですな。でも恋多き少年はいつもこんな感じですわ。

10月29日(月曜日)

 再び、奔放な考え。(AntiVirusの更新をまってる)

 ・・・・・・。

 更新が終わったので書くのもやめます。

Nayarit

Uruapan

Guanajuato(2回目)

 

次のページ