シュルレアリスムの年表・・『シュルレアリスムという伝説』より
+オクタビオ・パス年表・・『オクタビオパス詩集』より

1903年
 ・ドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』出版。フロイトは大いに興味を抱き、ひとつ論文を書く。「想像的なもの」と「現実的なもの」との劇的な関係。
1912年
 ・ブルトン、ヴォージュ山麓の父方の祖父母の地を訪ねる→『磁場』に影響
 ・12月・・ポール・エリュアールが結核の療養のためスイスへ行き、ガラと出遭う。彼女は一人の「霊感を与える女(アンスピラトリース)
1914年
 ・3月31日、オクタビオ・パス、メキシコ・シティで生まれる。
1917年
 ・医学生として動員されたアラゴンと、軍医補になるブルトンが軍医学校で出会い、共鳴。
1918年
 ・ルイ・アルチュセール生まれる→『資本論を読む』が主書。構造主義的マルクス主義者としてフーコーらに影響を与える。
1919年
 ・シュルレアリスム最初の自動記述の書『磁場』ブルトン/フィリップ・スーポー
 ・アラゴン、動員解除となりパリに戻ってくる。
1920年
 ・アラゴン詩集『祝火』
 ・詩人ジャック・プレヴェールと、ブルターニュ出身の画家イヴ・タンギーがロレーヌ地方・リュネヴィル近郊の兵舎で出遭う。
 ・6月末、ブルトン、シモーヌ・カーンと出遭う。
1921年
 ・5月13日、パリ・ダダの「文学」(リテラチュール」のグループの「バレス裁判」
 ・・・ブルトン、ツァラ、アラゴン、ドリュ・ラ・ロシェル、ジャック・リゴー主導。
 ・9月、ブルトン、シモーヌと結婚。
 ・10月10日、ブルトン、ウィーンにフロイトを訪ねる。
1922年
 ・アラゴン詩集『アニセあるいはパノラマ』→『祝火』とともに、ドリュ・ラ・ロシェルを引き付ける。
 ・エリュアールとガラの間にマックス・エルンストが入りこんでくる。→エリュアールの動揺
 ・ルネ・クルヴェルの詩集『あなた方は狂気か?』→エリュアールとガラに。
1923年
 ・ダダ運動の終息・・・リゴーは失望し、シュルレアリスム運動には参加しない(主著『エクリ』)
1924年
 ・アナトール・フランスの死→『死骸』(カダーヴル)
 ・3月〜9月にわたる、エリュアールの失踪→とりわけブルトンの動揺。
 ・10月・・セーヌの左岸、グルネル街15番地に「シュルレアリスム研究所」設立。
 詩人で俳優のアントナン・アルトーが所長となる。(この年の夏は映画俳優としてブルターニュ各地を撮影のために廻る)
 ・10月15日『シュルレアリスム宣言』の出版。
 ・ブルトン『溶ける魚』
 ・ブロメ街45番地のメンバー(アンドレ・マッソンを中心とするピエール・ナヴィル、ミシェル・レリス等)が運動に加わる。
 ☆シュルレアリスムとコミュニスムの距離が近くなる。
 ・マルクス兄弟、ブロードウェイでデビュー。(両親はアルザス出身のユダヤ人)
 ・バスター・キートン『忍術キートン』
1925年
 ・シャトー街54番地グループのプレヴェール兄弟、マルセル・デュアメル、イヴ・タンギーが加わる。
 ・ブルトン、トロツキー著『レーニン』を読んで感動。
 ・ドリュ・ラ・ロシェル右翼化/ルイ・アラゴン左翼化 ・・・両者の決別
 ・コミュニスムの雑誌「クラルテ」に、アラゴン、デスノス、エリュアール、ミシェル・レリスらが次々と執筆。
 (10月にはブルトン自ら執筆)
 ・バタイユ、ミシェル・レリスを介して、中心メンバーのいつもの溜まり場、ブランシュ広場のカフェ<シラノ>にてブルトン、アラゴン、エリュアール、ガラと出会う。バタイユは彼らに「魅了され」「強烈な印象を受けた」という。
 ・晩秋に、ジャック・リゴーがピストル自殺。→ドリュ『鬼火』を書く。
 ☆彼の自殺はシュルレアリスムの黄金時代の終わりを象徴している。二十年代の終わりには草創期のシュルレアリストの半ば以上がグループを去っていて、ネルヴァル的な夢、あるいはフロイトの無意識への純粋な自己投企の時は終わってしまっていた。自動書記も思ったようにはうまくいかなかった・・?とにかくも、この年の半ば程からシュルレアリスムはコミュニスムとどう決着をつけるかという課題をつきつけられた。
 ・バスター・キートン『セブン・チャンス』傑作。
1926年
 ・11月、シャトー街54番地にてフィリップ・スーポーとアントナン・アルトーの除名を決める。
 →ジャック・プレヴェールの、ブルトンに対する不信と不満。
 ・アラゴン『パリの田舎者』エリュアール『苦悩の首都』
1927年
 ・アラゴン、ブルトン、ペレらが共産党に入党。←他のメンバーの不審
 ・11月、カフェ<シラノ>で、シュザンヌ・ミュザールと出遭う→恋愛関係に陥る
1928年
 ・ブルトン『シュルレアリスムと絵画』
 ・5月、アラゴン、ウラジミール・マヤコフスキーの義妹にあたる作家エルザ・トリオレと出遭う。
 ・この一年間、ブルトン⇔シュザンヌ⇔シモーヌの三角関係。
 。バスター・キートン『キートンの蒸気船』
1929年
 ・ダリ、ブニュエル『アンダルシアの犬』
 ・ダリ『大いなる手淫者』
 ・エルンスト『百頭女』
 ・サルバドール・ダリが参加「偏執狂的批判的方法(パラノイアック・クリティーク)」はシュルレアリスムにとって唯一の新味
 ・デスノス、プレヴェール、レリス、バロン、ランブールの離脱(シャトー街54番地組、ブロメ街45番地組の離反)、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥールの参加
 ・マルクス兄弟『ココナッツ』
1930年
 ・デスノス、プレヴェール、バタイユらが『死骸』2号を発行、ブルトンを攻撃
 ・6月、ブルトンは『シュルレアリスム第二宣言』で反撃。
 ・7月「革命に奉仕するシュルレアリスム」創刊。
 ・ブルトン、エリュアール、ルネ・シャールの共同詩集『工事中、徐行せよ』
  カンヌへの旅の途上で製作。
 ・11月、ブルトン、エリュアール『処女懐胎』
 ・同月、アラゴンとサドゥールが第二回国際革命作家会議(ソビエト、ハリコフ)に出席
 →アラゴン対ブルトン、エリュアールの論争がおこる
 ・マルクス兄弟『けだもの連合』
1931年
 ・ブルトン、『通底器』に「この年は私にとって極端に暗い見通しのもとにはじまった。心はすっかり閉ざされていた」と記す(1932年出版)
 ・夏、アルトー、バリ島の演劇をヴァンセンヌの森で発見、啓示を受ける→「残酷演劇」へと発展
 ・11月、アラゴン『赤色戦線』がフランスで検閲にかかる→アラゴン除名へ(『売女!』エリュアール『証明書』)
1932年
 ・6月、ブルトン、詩集『白髪の拳銃』
 ・11月、ブルトン『通底器』・・・ブルトン版<夢の解釈>・・・?
 ・ラカン『症例エメあるいは自罰パラノイア』
1933年
 ・6月、ブルトン、エリュアール、クルヴェルらはフランス共産党から除名される→ブルトンのトロツキー傾向が顕著になる
 ・豪華な美術中心の雑誌「ミノトール」創刊、ブルトン、ラカンが執筆→ブニュエル反撥。
 ・パス、19歳で処女詩集『野生の月』を出版。
 ・レーモン・ルーセル自殺。
 ・マルクス兄弟『我輩はカモである』
1934年
 ・1月、アレクサンドル・コジェーヴの「ヘーゲル『精神現象学』の講演ゼミナール」が開かれ、バタイユ、ジャック・ラカン、クノー、クロソフスキー、メルロ=ポンティ、サルトル、ロジェ・カイヨワ等が常連。ブルトンも時に参加
 ・2月6日、スタヴィスキー事件を契機としてコンコルド広場に4万人のデモが集まる。
 (右翼も左翼も肩を組んで集まった)
 ・2月11日、ヴァンセーヌ通りのデモにバタイユ、ミシェル・レリス、ロラン・チュアルが参加→右翼の進出を知る。
 ・5月、バタイユ、愛人のコレット・ペレニョと再会し、7月3日に結婚。
 (ブルトンは5月29日にジャックリーヌ・ランバと出会い、8月に結婚している)
 ・フランス共産党からサン=ドニ市長のジャック・ドリオが除名される→フランス人民党(ファシズム)を結成。ここにドリュ・ラ・ロシェルが入る。福田和也は『奇妙な廃墟』の中で「ドリュにとってファシズムとは、アメリカの資本主義とロシアの共産主義に対抗して、ヨーロッパが再生するためのインターナショナルなイデオロギー」にほかならなかった、とする。
1935年
 6月22日、ルネ・クルヴェル自殺。(本来のシュルレアリスムの終焉)
 ・ブルトン、共産党と断絶→バタイユと一時的に接近
 ・9月、「コントル・アタック」(ファシズムへの反撃の拠点のひとつ)最初の会合。バタイユ、ブルトン参加。
 バタイユはこの<革命>をサド、フーリエ、ニーチェの三つの旗印のもとに置く。
 ・アルトー、メキシコにてタラウマラ族のペヨトル信仰の儀式に臨む。また、太陽神を崇めるトゥトゥグリという儀式にも。
 ・アルトー、『チェンチ一族』を上演・・・自ら主演。
1936年
 ・ジョルジュ・バタイユ『無頭者』(アセファル)創刊・・画家アンドレ・マッソン。
 ・4月、ブルトン、エリュアールがチェコのプラハで講演/「コントル・アタック」分裂
 ・5月、カナリア諸島テネリフでシュルレアリスム国際展が開かれる。
 ・6月、「文化擁護のための作家会議」
 ・9月、ブルトン、トロツキー擁護の立場を明らかにする
1937年
 ・1月、トロツキー、メキシコへ亡命→ディエゴ・リベラの庇護
 ・11月20日、バタイユの「社会学研究会」が開かれる(パリ・リュクサンブール公園近くのゲイ=リュサック街15番地)
 ベンヤミンとドリュが参加している。
 ・パス、内戦中のスペインへ赴き、パブロ・ネルーダらと共に<反ファシスト作家会議>に出席、約一年間共和派のために尽力する。
1938年
 ・7月19日、ロンドンでフロイトとダリが会う。フロイトはダリを一度で気に入る。・・・「これまで私は、あたかも守護者に私を選んだかに見えるシュルレアリストたちは全くの(アルコールの場合と同様95%の)馬鹿者であると考えがちでありました。この若いスペイン人は誠実なファナティックな眼をしていて、技術的な練達は否定しがたく、私に別の評価を示唆してくれました。事実、このような絵の生成を分析的に探求することは非常に興味のあることでしょう」・・・友人ツヴァイクに宛てた手紙。
 ・4月、ブルトン、メキシコでトロツキーと親しく付き合う。ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロと知り合う。
 リベラ、ブルトン共同で「独立革命芸術のために」という宣言文を作る(二人とも反スターリン)
 ・帰国後9月、ブルトン、エリュアールと決別。
1939年
 ・2月、レヴィ=ストロースがブラジルから帰国。
 ・ブルトン、ダリをその右翼的発言の理由でグループから除名。
 ・夏、アメリカの女流画家ケイ・セージが、タンギーやブルトン夫妻、チリの画家マッタらをスイスに近いシュミリューの城館に招く。
 ・第二次世界大戦勃発。(9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入)
 ・9月23日、フロイト死す。
1940年
 ・3月、ブルトン、マルセイユからアメリカへ(実際はアンチル諸島マルチニック島まで)・・・同じ船に、ブルトンよりも14歳程若いクロード・レヴィ=ストロースが乗っている。
 ・5月15日、マジノ線突破
 ・6月14日、パリ入城
 ・8月、トロツキー暗殺される
 ・8月、アメリカでタンギーとケイ・セージが結婚。
1941年
 ・2月、「ポール=ルルメル大尉号」にブルトン、レヴィ=ストロースが乗る。
・・・ブルトン、マルチニック島で、黒人の詩人エメ・セゼールと出会う。
 ・8月、ブルトン、ニューヨーク到着。
 ・レヴィ=ストロース、「高等研究自由学院」にて12歳年上の言語学者ローマン・ヤコブソンと出会い、はじめてソシュールの言語学に通じる。
 ・パス、詩集『きみの明るい影のもとで』
1942年
 ・6月、「VVV(トリプル・ヴェ)」創刊。→のちに評論集『野の鍵』へ
 ・ルネ・シャール、アレクサンドル大尉という変名で、マキ(ナチスへの抵抗運動)の隊長として活動。(シャールはカミュと親しい)
 ・『シュルレアリスム第三宣言』
 ・パス、『世界の岸辺で』
1943年
 ・ヤコブソン、ニューヨーク言語学派を創立。
1944年
 ・パス、アメリカに留学し、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、E・E・カミングス、W・スティヴンズ、フロストなどの詩の世界を知る。詩集『雲の状況』。
1945年
 ・ジュール・モヌロ『現代詩と聖なるもの』(有田忠郎訳『超現実主義と聖なるもの』)
・・・彼は1930年ごろ活動に加わった、小アンチル諸島生まれのフランス人。バタイユとも親しい。彼はその著書のなかで、「アレクサンドリアの2・3世紀と現代(1920〜30)は、諸説、諸宗教の折衷混合の時代で、アレクサンドリアのグノーシス主義と現代のシュルレアリスムは互いに響きあい相呼応するものがある」としている。
 ・サルトル「現代」(タンモデルヌ)誌を創刊→彼もまたマルクス主義へ。
 ・ラカン、戦中の沈黙から脱し、「徹底したラディカルなフロイト主義者」としての姿を現す。
1946年
 ・3月、ブルトン、アメリカから帰国。・・・オクタビオ・パスと出会う(45年という説も)
 ・フリーダ・カーロ、入院。ブルトンと離婚したジャクリーヌ・ランバがしばしば見舞いにくる。
 ・エルンスト、アメリカの女流画家ドロテア・タニングと結婚する。
 ・バタイユ「クリティック」誌を創刊。
 ・渡辺慧『フランスの社会主義の変化』注目すべきフーリエ論。「マルクスは百年単位だったが、フーリエは千年単位で歴史を問題にした」
1947年
 ・2月、ブルトン『シャルル・フーリエへのオード』
 ・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』
 ・6月、パリ「シュルレアリスム国際展」デュシャン、タンギーが出品
 ・ブルトン、フランス共産党への敵対宣言
 ・カミュ『ペスト』
 ・ジャン=ルイ・ベドゥアン、ジャン・シュステル、ジェラール・ルグラン、サラーヌ・アレクサンドリアン、ジンドリッヒ・ハイスラーら、1930年前後生まれの戦後世代がグループに入ってくる。
1948年
 ・1月、アルトーがヴィユー・コロンビエ座で怒号の講演→ブルトンの疑念
 ・アントナン・アルトー死す。
 ・同月、戦後世代の編集による機関紙「ネオン」発刊。
 ・10月、ブルトン、インタビューにて社会順応主義を否定。アラゴンの社会主義レアリスムを否定、弾劾。
 ・10月5日、ピカソが共産党に入党。
 ・ルイ・アルチュセールが共産党に入党。
 ・パス、詩集『向日葵』
1949年
 ・12月、エリュアール『スターリン賛歌』を「ユマニテ」に掲載。
 ・パス、詩集『言葉のもとでの自由』
1950年
 ・ピカソ、バタイユ、シャールが一緒に闘牛見物。
 ・フーコーが共産党入党。
 ・パス、評論集『孤独の迷宮』
1951年頃
 ・ブニュエル『忘れられた人々』
 ・パス、詩集『鷲か太陽か』
1952年
 ・3月〜6月、ブルトンが、ラジオ・フランスの企画で16回にわたってアンドレ・パリノーとの対話を放送・・・『対話録』
 ・パス、インドと日本を訪れる。
1953年
 ・ブルトン評論集『野の鍵』
 ・11月、ジャン・ジュステル編集の機関紙「メディオム」創刊。
 ・エジプト人ジョイス・マンスールの処女詩集『叫び』
1954年
 ・アラゴン、共産党の中央委員となる
 ・パス、詩集『讃歌のための種子』
1955年
 ・1月、イヴ・タンギー死す。
 ・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
 ・ジョイス・マンスール『裂け目』
1956年
 ・夏・・・ブルトン、アルザスと黒い森への旅
 ・10月、ソ連がハンガリー侵入
 ・「シュルレアリスム・メーム」誌の第一号
1957年
 ・「シュルレアリスム・メーム」誌の第三号・・・オクタビオ・パスの49年の評論(おそらく『孤独の迷宮』)が出ている。
 ・アラゴン、レーニン平和賞を受賞
 ・2月12日、バタイユ、レンヌ街のセルクル・ウーヴェールという公開の席で「エロチスムと死の魅惑」というテーマの講演をし、ブルトンも出席している。「実際にはなされなかった質問に対する答え・・エロスとタナトスの不吉な争いの中に、愛を導きいれるもの」それは、ブルトンだけがすることの出来る質問だった。
 ・パス、詩集『太陽の石』、林屋栄吉との共訳『奥の細道』、詩論集『木に縁りて魚を求む(楡の木から梨の実が)』
1958年
 ・レヴィ=ストロース『構造人類学』
 ・パス、詩集『激しい季節』
1959年
 ・バンジャマン・ペレ死す。
 ・エルンスト除名(美術の大賞を受けたという理由で)。
1961年
 ・ブニュエル『ビリディアナ』ブルトンお気に入り。
1962年
 ・ブニュエル『皆殺しの天使』ブルトン気に入らず。
 ・7月8日、ジョルジュ・バタイユ死す。
 ・レヴィ=ストロース『野生の思考』→サルトル批判
 ・パス、インド駐在メキシコ大使となる。公務のかたわら、東洋哲学・タントラ美術・古代インド神話などを研究する。詩集『火蜥蜴』
1963年
 ・ケイ・セージ、ピストル自殺。
1964年
 ・パス、マリ=ジョゼ・トラミニと再婚(彼女は、以後のパスの仕事に大きな影響を与える)
 ・パス、評論集『四学科』、評論集『回転の中の兆し』出版。
1966年
 ・9月29日、アンドレ・ブルトン、パリで死す。
 ・バスター・キートン死す。
 ・ラカン『エクリ』→81年の日本語訳は「日本の読者に意味として殆ど何も伝えることのできぬ翻訳」である、と。
 ・パス、詩論集『運動する詩』、評論集『田園への門』
1967年
 ・評論集『クロード・レヴィ=ストロースあるいはアイソーポスの新たな饗宴』、評論集『交流』、詩集『白』、評論集『国立学校の思い出』
1968年
 ・パス、メキシコ・オリンピックの直前に起こった学生による反対デモに対する自国政府の過酷な弾圧及び虐殺に抗議して、インド大使の職を辞する。その後数年間、ケンブリッジ大学、テキサス大学及びハーバード大学で教える。
 ・詩集『可視的な円盤』、評論集『マルセル・デュシャンまたは純粋な城』
1969年
 ・パス、詩論集『結合と分裂』、詩集『東斜面』
1970年
 ・アラン・ジュフロワ『交替の終わり』彼は日本の詩に関心を寄せている。
 ・パス、評論集『追記』
1971年
 ・ロラン・バルト『サド・フーリエ・ロヨラ』
 ・パス、詩集『トポエマ』、評論集『伝統ー文学と文字』
1972年
 ・パス、詩集『連歌』、詩的散文集『文法学者の猿』
1973年
 ・パス、評論集『記号と落書』、評論集『裸形の表層・マルセル・デュシャンの作品』、評論集『翻訳と楽しみ』、評論集『赤裸な外観』、評論集『展望と分裂の中で』
1974年
 ・サラーヌ・アレクサンドリアン『シュルレアリスムと夢』・・・フロイトとブルトンの両者とも「夢」を「欲望の暗号による啓示」と見ていたが、人格的なものが類似していたため、かえって相交わることがなかった。
 ・パス、詩論集『泥の子供たちーロマン主義からアヴァンギャルドへ』・・・ハーバード大学での講義をまとめたもの。
1975年
 ・パス、詩集『光をあてられた過去』、評論集『循環における前兆』
1976年
 ・パス、詩集『帰還』
1977年
 ・パス、メキシコ国家文学賞受賞。
1979年
 ・パス、評論集『博愛主義的食人鬼』、評論集『調停』
1981年
 ・パス、セルバンテス賞受賞。
1982年
 ・アラゴン死す。
 ・パス、評論集『ファナ・イネス・デ・ラ・クルスもしくは信仰の罠
 ・パス、イノザッツ国際賞受賞。
1983年
 ・レヴィ=ストロース『はるかなる視線』(三保元訳)・・・アメリカ亡命ネタが含まれてる。
 ・パス、評論集『くもり空』、評論集『労働の影』
1984年
 ・オクタビオ・パス来日。
 (「オクタビオ・パスは1984年に来日したときも、なおブルトンの側にあり、戦後のサルトルへの批判の気持ちを未だに失っていないと私に語った。パスは早くからソ連あるいはコミュニスムへの危険を指摘し、同時に北からメキシコを圧迫するアメリカへの批判も怠っていなかった」)
 ・評論集『彼の世紀の人間』
1985年
 ・パス、対談集『批評への情熱』
1987年
 ・パス、詩集『内部の樹木』
 ・パス、T・S・エリオット賞受賞。
1988年
 ・パス、評論集『一流の文学』
 ・パス、ブリタニカ賞受賞。
1989年 
 ・パス、評論集『大いなる日々の小さな年代記』、選詩集『日ごとの情熱』
1990年
 ・パス、ノーベル文学賞受賞。
 ・評論集『もうひとつの声』
1991年 
 ・パス、評論集『収斂』
1992年
 ・パス、小説『途中で』
1993年
 ・パス、評論集『二重の炎』
1994年
 ・パス、評論集『道程』
1995年
 ・パス、評論集『インドの薄明』
1998年
 ・パス、4月19日没。